【吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

日本人は古来から五・七・五・七・七の三十一文字で、花を詠み、月を詠み、人生を詠んできました。

 

平安時代末期、桜の花をこよなく愛した歌人に、「西行」がいます。鎌倉時代初期の成立の『新古今和歌集』に多くの歌が入集している歌人です。

 

今回は、西行の歌「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」の詳細を解説!

Cherry blossoms at Yoshinoyama 01.jpg

(春の吉野山 出典:Wikipedia

 

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花散りなばと 人や待つらむ

(読み方:よしのやま やがていでじと おもふみを はなちりなばと ひとやまつらむ)

 

作者と出典

この歌の作者は「西行(さいぎょう)」です。平安時代末期の人物で、世を捨てた僧侶でもあり、各地を旅したさすらいの歌人です。

 

この歌の出典は『新古今和歌集』(巻十七 雑歌中1619です。

 

『新古今和歌集』は、建仁元年(1201)の後鳥羽院の下命で編纂された勅撰和歌集です。西行の歌は、94首入集しています。

 

(※勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令によって編纂される和歌集のこと。)

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「吉野山からもう出ることなく修行をしようと思っている私だが、桜の花が散れば戻ってくるだろうと都にいる親しい人は私を待っているのだろうか。」

 

となります。

 

吉野山は修験道の聖地であり、桜の名所としても有名です。西行は桜の花を愛した歌人でした。出家の身として、吉野山で世を避けて暮らす覚悟を述べつつも、鹿自分を都で待つ人を思う心の揺れが詠まれています。

 

文法と語の解説

  • 「吉野山」

「吉野山」は、奈良県にある山のこと。修験道の開祖・役小角(えんのおづの)が金峯山寺を開き、多くの社寺があります。役小角が吉野山で修行中に蔵王権現を感得。桜の樹にその姿を彫ったとされ、桜の樹がご神木とされました。修行する人々が吉野山に桜を植え、桜の名所としても有名になりました。

 

  • 「やがて出でじと」

「やがて」は副詞、「そのまま」という意味です。

「出でじと」は、動詞「出づ」の未然形+打消しの意志の助動詞「じ」の終止形+引用の格助詞「と」です。

 

  • 「思ふ身を」

「思ふ」は動詞「思ふ」の連体形です。「を」は対象を表す格助詞です。

 

  • 「花散りなばと」

「花」は吉野山の桜のことです。

「散りなばと」は、動詞「散る」の連用形「散り」+完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+順接条件を表す接続助詞の「ば」+引用の格助詞「と」です。

「花散りなばと」は、そのまま訳すと「花が散れば…と」という意味ですが、正確には「花が散ったら、都に帰ってくるだろう…と」という意味になります。「都に帰ってくるだろう」にあたる言葉は省略されています。

 

  • 「人や待つらむ」

「人」は、作者が親しくしていた都の人のことです。

「や」は係助詞で、文末が連体形になる係り結びを作ります。

「待つらむ」は、動詞「待つ」の終止形+推量の助動詞「らむ」の連体形です。係助詞「や」があって、係り結びになるため、文末が終止形ではなく連体形となります。

「や…連体形」の係り結びは、疑問の意味です。「人や待つらむ」で、「親しい人々は私を待っているのだろうか」という意味になります。

 

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」の句切れと表現技法

句切れ

この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」です。

 

自らの心の内をひと続きで詠んでいます。

 

省略

省略とは文の内容を言い切ることなく、読者に推量させて余韻を残す表現です。

 

この歌では、「花散りなば(花が散ってしまえば…)」ということばがありますが、「花が散れば都に帰ってくるだろう」、という意味です。つまり、「都に帰ってくるだろう」という部分が省略されています。

 

当然推測されることを省略することで、三十一文字で効果的に一首を詠んでいます。

 

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」が詠まれた背景

 

『新古今和歌集』には、「だいしらず」という詞書で載る歌です。

(※だいしらず・・・どのような状況で詠まれた歌かわからない)

 

この歌の成立事情は明らかではないものの、西行は吉野山の桜を愛した歌人でした。

 

西行は、出家して真言宗の総本山金剛峰寺のある高野山(和歌山県)に住んでいたとされます。高野山と吉野山は、宗教的な結びつきも強く、往来もありました。西行も花の季節には、吉野の桜を眺めていたことでしょう。

 

西行が詠んだ吉野山の桜に関する歌

ここでは、西行が吉野山の桜を詠んだ歌をいくつか紹介します。

 

「なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山」

 (意味:なんとなく、春になったと聞いたその日から、今年の桜はどんなに見事だろうかと吉野山のことが気にかかって仕方がない。)

 

上記の歌は『山家心中集 (さんがしんちゅうしゅう)』(西行自撰の歌集)の冒頭の歌です。立春の日に詠んだという詞書があります。

 

「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき」

意味:吉野山の桜の木の梢に咲く花を一目見たその日から、心が浮き立ち、上の空になってしまった。)

 

こちらも『山家心中集』にある歌です。吉野山の桜に心酔していることが分かります。

 

また、『新古今和歌集』にはこのような歌があります。

 

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」

意味:吉野山の桜の枝に雪が舞い散り、今年は開花が遅くなることであるなあ。)

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん」

意味:吉野山で通った道が分かるように、去年目印に枝を折っておいたが、その道を変えて、まだ見たことのない方の花も見てみたいものだ。)

 

吉野山の桜を知り尽くさんばかりに、桜を求めてやまなかったことが分かります。

 

このように西行は吉野山の桜を愛した歌人でした。

 

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」の鑑賞

 

この歌は、俗世間から距離を置こうという「僧侶としての気持ち」と、そうはいっても気にかかる「俗世への気持ち」の両方を詠んだ歌です。

 

西行は、桜の花のころに桜の名所・吉野山に赴いたのでしょう。

 

しかし、世をそむく出家者の立場として、そのまま修験道の聖地・吉野山を出ずに修行を続けようという決意を秘めていました。

 

ただ、都に残してきた親しい人への思いも西行の胸をよぎります。

 

「都にいる親しい人は、桜が散れば吉野から都に戻ってくるだろう」と考えて待っているだろうか、【もう都に帰ることはないのに…】といった述懐となっています。

 

 作者「西行」を簡単にご紹介!

(西行 出典:Wikipedia)

 

西行(さいぎょう)の生年は元永元年(1118)、没年は文治6(1190)です。身分の高い貴族ではありませんが、藤原北家の末流の家柄で、鳥羽院の北面の武士として宮中に出仕していたという記録もあります。

 

西行の俗名(僧侶になる前の名前)は佐藤義清(のりきよ)です。保延6年(1140年)23歳のときに、親しい友人の死で世の無常を知ったため出家(僧侶になること)したとか、失恋をしたため出家したといわれています。

 

僧侶になってから、陸奥、出羽(東北地方)の歌枕を訪ねる旅、中国・四国地方へ、弘法大師の聖地の巡礼とかつて仕えた崇徳院を慰霊する旅をしました。高野山(和歌山県にある、真言宗の総本山金剛峰寺のある山)や伊勢国(三重県)で暮らし、再び東北を尋ねる旅に出て、その途中で源頼朝にも会っています。

 

旅の中で歌を詠んだ漂泊の歌人としても知られ、後世、多くの人から慕われました。

 

特に、松尾芭蕉は西行を尊敬していました。芭蕉の有名な「おくのほそ道」の旅は、源義経(没年文治5(1189))と西行(没年文治6(1190))の没後500年後の元禄2(1689)のことでした。芭蕉の旅は、尊敬する源義経、西行らの慰霊の意味もあったとされます。

 

西行の有名な歌には、・・・

 

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

(意味:私の願いは、満開の花のもと、春にこの世を去りたいということだ。桜が満開の、二月の満月のころに。)

 

もあります。その歌の通り、文治6(1190)216日(現在の暦でいうと、331日にあたる)に亡くなりました。

 

 「西行」のそのほかの作品

(和歌山県紀の川市の西行法師像 出典:Wikipedia

 

  • 道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
  • なげけとて月やは物を思はするかこちがほなるわが涙かな
  • 仏には桜の花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば
  • 聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立
  • 心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮
  • 吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ