晩夏から秋にかけて、大地の豊かな実りの象徴として、古くから日本人に愛されてきた果実、葡萄。
葡萄の表すイメージは、実に多彩です。幸せを象徴するような実り・芳醇な香りから想像されるなまめかしさ・雨に濡れた暗い色の持つ哀しみなど。
万葉集の時代から現代に至るまで、そんな葡萄をモチーフとした短歌が多数作られてきました。
今回は、医者でありながら歌人としても活躍して、数々の名作を残した斎藤茂吉の歌「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」をご紹介します。
沈黙の われに見よとぞ 百房の
黒き葡萄に 雨ふりそそぐ : 斎藤茂吉 pic.twitter.com/Yq90TxodQD— のめこっぷ (@hnwk8484) October 28, 2017
本記事では、「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」の詳細を解説!
沈黙の われに見よとぞ 百房の 黒き葡萄に 雨ふりそそぐ
(読み方:ちんもくの われにみよとぞ ひゃくふさの くろきぶどうに あめふりそそぐ)
作者と出典
この歌の作者は、明治から昭和を生きた歌人「斎藤茂吉(さいとうこきち)」です。茂吉は医者でありながらも、文学方面にも関心を寄せ、数々の優れた作品を発表しています。
茂吉は医学を熱心に勉強し、やがて病院長を務めるまでになります。その一方、伊藤左千夫のもとで歌を学び、大正~昭和はじめにかけて歌誌「アララギ」の中心として活躍しました。
この歌の出典は『小園(こぞの)』です。
昭和24年(1949年)に刊行された第15歌集です。『小園』には昭和18年(1943年)から昭和21年(1946年)にかけて詠んだ歌が収められています。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「沈黙している私に見よと言うかのように、百房にもおよぶたくさんの黒い葡萄に雨が降りそそいでいる」
という意味になります。
そこはかとない哀しみを感じさせるこの歌。この歌が詠まれたのは終戦直後の秋、葡萄の季節。山形に疎開していた茂吉が、祖国の敗北に言葉を失ったさまを詠んだ歌です。
文法と語の解説
- 「沈黙の」
後の「われ」に続くことば。本来「われ」に続く形容詞ではないが、ここでは形容詞のように使われています。
- 「見よとぞ」
「見よとぞ」は、「見る」の命令形「見よ」に、格助詞「と」と強調の係助詞「ぞ」が付いたものです。
- 「百房」
「百」は具体的な数ではなく、「たくさんの」という意味です。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。
この歌は「われに見よとぞ」で一旦文章の意味が切れます。二句目で切れていますので、「二句切れ」の歌となります。
表現技法
表現技法として目立つような技法は用いられていません。
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」が詠まれた背景
この歌は、昭和20年(1945年)4月からの山形県への疎開中に詠まれた歌です。秋の季節の到来をテーマとした「岡の上」と題する一連の中の一首です。
この歌が昭和20年(1945年)の作であることはわかっていますが、何月かということまでははっきりしていません。葡萄が実っているのですから、季節は晩夏から秋だと思われます。
よって、終戦直後に詠まれた歌だということがわかります。
茂吉は、太平洋戦争時、戦意を昂揚させ、鼓舞する歌 (愛国歌) を多数作りました。そのことによる責めから茂吉は逃れるように山形に疎開。終戦の数ヶ月前には、東京の自宅と、院長を務めていた病院は空襲で焼かれてしまいました。
終戦時、茂吉はさぞ深く傷つき絶望していたことでしょう。
このような背景を知って、改めてこの歌を鑑賞すると、茂吉の悲哀・孤独・後悔が、秋の風景とともに私たちの胸に深く迫ってくるように思います。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
斉藤茂吉
(『小園』) pic.twitter.com/9zyTXkkypT— Pippo 公式アカウント (@pippoem2) November 1, 2018
「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」の鑑賞
終戦直後に詠まれたこの歌は、祖国の敗戦に呆然として立ち尽くしている茂吉の心情がよく表されている歌です。
「沈黙のわれ」は、文法的に見ると正しくありませんが、「沈黙している私」という意味です。「祖国の敗戦に言葉を失っている私」という意味もあります。
しかし、そこにはもっと深い意味も隠されているように思います。戦時中、戦意を昂揚させる愛国歌を多数作ってきた茂吉は、このとき、表現者として戦争に加担してしまったことを後悔していたかもしれません。表現者として「沈黙」していたことへの悔恨の気持ちが見てとれます。
「百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」の箇所は、まるで絵画のように、読む人に強い印象を与えます。心情を表す言葉はひとつも使われていませんが、そこには深い哀しみが宿っていると感じることができます。
「葡萄」は「豊かな実り」「瑞々しい美しさ」を感じさせる果実です。しかし「黒き葡萄」、そしてそこに「雨がふりそそぐ」となると、そのほの暗さ、湿り気、冷たさは、深い哀しみを想起させます。
「百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」。黒い葡萄が百房もあり、灰色の空から雨が激しく降りしきっている。心が沈むような絶望感のある光景です。
黒き葡萄は、実りの時を迎えて収穫されることなく、朽ちて地面に落ちてしまうのでしょう。この下の句に、茂吉の戦争への想いが表されているようです。
作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
斎藤茂吉(明治15年(1882年)-昭和28年(1953年))。
茂吉は精神科医でありながら、歌人としても活動しました。大正から昭和前期にかけて、歌誌・アララギの中心人物として創作に勤しんでいます。その生涯で17もの歌集を発表しました。
茂吉は、山形県の農家の生まれです。斎藤家の後を継ぐことを見据えて、ある時菩提寺の住職の紹介により、開業医・斎藤紀一のもとに身を寄せ、医学を学ぶべく学校へ入ることとなりました。
茂吉は学生として医学に励む一方、文学にも強い関心を寄せていきました。明治37年(1904年)には、正岡子規の遺稿集に強い感銘を受けます。
そして、子規の流れをくむ伊藤左千夫のもとで短歌を学ぶようになります。歌誌『馬酔木』が『アララギ』になってからは、中心歌人として存在感を出していました。
大正2年(1913年)には第一歌集『赤光』を発表し、注目を集めました。その後も医学に取り組みながら病院長になり、さらには短歌や柿本人麻呂の研究に精を出し続けました。
戦後の晩年期には、東北・蔵王の近くに移り、そこで歌集『小園』『白き山』へとつながる歌を詠みました。
昭和26年(1951年)には文化勲章を受章し、その翌年には『斎藤茂吉全集』が刊行されました。しかし、その喜びもつかの間、昭和28年(1953年)に心臓喘息のため70歳でその人生に幕を下ろしました。
「斎藤茂吉」のそのほかの作品
- ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
- 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
- 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
- ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
- 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
- うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日