古代から日本人の心を映してきた短歌。
時代とともに、詠われる内容や、技法も変化しています。
今回は、鎌倉時代に編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」から「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」という歌をご紹介します。
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
藤原定家#きょうの短歌https://t.co/39CctbDoG6 pic.twitter.com/XTFJ2hIh5f— 地獄極楽太夫 (@gokuraku_zigoku) January 3, 2019
本記事では、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」の詳細を解説!
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空
(読み方:はるのよの ゆめのうきはし とだえして みねにわかるる よこぐものそら)
作者と出典
この歌の作者は「藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか)」です。平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人です。
この歌の出典は、『新古今和歌集』(巻第一 春歌上 38)です。
『新古今和歌集』は、日本で8番目の勅撰和歌集です。建仁元年(1201年)、後鳥羽院の命により編纂されました。
勅撰和歌集とは、天皇や上皇(院)の命令で編集される和歌集です。藤原定家は、『新古今和歌集』の撰者のひとりです。この時代の歌壇の第一人者であったのです。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「春の夜の儚い夢から目覚めてみると、横にたなびく雲が、峰に分かたれて左右に別れていく(または、峰から横にたなびく雲が離れていく)、夜明けの空であることよ。」
となります。
表面的な言葉だけを拾うと、「春の朝、目覚めて見上げた空に浮かんでいる雲の様子」を詠んでおり、いまいち状況がわかりません。
しかし、じつはこの歌にはいろいろなイメージが重層的に込められており、恋の歌として読み解けるのです。(※のちに解説します)
文法と語の解説
- 「春の夜の」
「の」はどちらも連体修飾格の格助詞です。
- 「夢の浮橋」
「の」は連体修飾格の格助詞です。「浮橋」とは、水の上にいかだや舟などをならべ、それに板を渡して橋のようにしたものです。不安定な、不確かなもののたとえにも使われます。
「夢の浮橋」とは、夢の中のあてにならない通い路、または儚い夢そのもののことを指します。
平安時代の長編小説『源氏物語』の最終帖には「夢浮橋」というタイトルが冠せられています。この歌と「夢浮橋」というタイトルとの関連も研究者によって指摘されています。
また、和歌の中で「夢の浮橋」と言う言葉を用いたのは、この歌が初めてではないか、との指摘もあります。
- 「とだえして」
動詞「とだゆ」の連用形「とだえ」+動詞「す」の連用形「し」+接続助詞「て」です。
前の句の「夢の浮橋」を受けて、夢が途絶える・儚い夢から目を覚ますといった意味で使われています。
- 「峰に別るる」
「に」は格助詞。「別るる」は、動詞「別る」の連体形「別るる」です。
「峰に別るる」は、解釈の分かれる言葉です。「雲が峰によって分断され、左右に別れていく」という解釈と「峰から雲が遠ざかり、峰と雲とが離ればなれになる」という解釈が成り立ちます。いずれにしろ、「別れる、離れ離れになる」というイメージの言葉です。
- 「横雲の空」
「横雲」は、横にたなびくように広がる雲のこと。「の」は連体修飾格の格助詞です。
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。
この歌には、三句目「とだえして」で一旦意味が切れていますので、「三句切れ」の歌となります。
夢うつつな雰囲気、曖昧な感じでさらりと途切れることなく詠まれています。
本歌取り
本歌取りとは、有名な古い歌・先行する歌(=本歌)の言葉を新たに詠む歌の中に取り込んで、本歌のイメージをだぶらせつつ、歌の内容に奥行きや情緒を持たせる表現技法です。『新古今和歌集』の時代の和歌にはよく用いられた技法です。
この歌の本歌として、下記の3つの歌があげられます。
【作者と出典】壬生忠岑(みぶのただみね)『古今和歌集』
風ふけば 峰にわかるる 白雲の たえてつれなき 君が心か
(意味:風が吹くと、峰でわかれてちぎれて消えてしまう白い雲のように、私たちは離ればなれで想いを通わせ合うことがなくなっいて、冷たくなったあなたの心を思うと寂しいものです。)
この歌は関係の途絶えてしまった相手との仲を嘆く、恋の歌です。「峰にわかるる白雲」が、「春の夜の夢の浮橋…」の歌の「峰にわかるる横雲」とかぶる表現です。
【作者と出典】藤原家隆(ふじわらのいえたか)『六百番歌合』
霞(かすみ)たつ 末の松山 ほのぼのと 波にはなるる 横雲の空
(意味:かすみがたちこめる末の松山の景色。たなびくかすみのような雲が、まるで波のように山を包んでいる。ほのぼのと夜が明けると、夜明けの空の中に、たなびく雲もかすんで消えなてゆく。)
この歌は、「春の曙(あけぼの)」という題で詠まれた歌です。曙とは夜明けのこと。夜明けの、たなびく雲の様子を詠んだ歌です。春の夜明けの歌であること「はなるる横雲の空」という言葉が「春の夜の夢の浮橋…」の歌とかぶっています。
また、「末の松山」とは、東北地方の歌枕(歌に詠みこまれる名所)で、多く恋の歌にも詠まれてきました。この「霞立つ…」の歌自体も「末の松山」を詠み込んだ恋の歌の本歌取りでもあります。
この歌は、実は、『新古今和歌集』の37番の歌で「春の夜の夢の浮橋…」のすぐ前の歌です。藤原家隆は、藤原定家と同時代の人物で、定家とともに『新古今和歌集』の編纂に関わった一人でもあります。
【作者と出典】周防内侍(すおうのないし)『千載和歌集』
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
(意味:短い春の夜の、儚い逢瀬で終わった恋なのに、浮名を立てられたら口惜しいものです。)
この歌は、「割り切りの火遊びのような恋なのに、人のうわさになったらつまらない」という気持ちを詠んでいます。恋の歌ではありますが、切ない悲恋ではなく、ちょっとしたゲーム感覚の逢瀬を詠んだ歌です。
上記のように、藤原定家は「春の夜の夢の浮橋…」の歌を、様々な古歌・先行の歌を下敷きにし、本歌取りして詠んでいるのです。
本歌から、儚い恋のイメージや春の夜明けの空・別れのイメージをだぶらせることで、「春の夜の夢の浮橋…」の歌は奥行きを増しているのです。
体言止め「横雲の空」
体言止めとは、一首の終わりを体言・名詞で止める技法です。余韻を持たせたり、意味を強める働きがあります。
「横雲の空」と名詞でこの歌を止めることで、物思いにふける朝の悩ましい気分や恋心など、言葉で表現しきれない余韻を残しています。
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」の鑑賞
この歌は、歌や物語に用いられてきた言葉やモチーフ、それらのもたらすイメージを援用して、恋の歌に仕上がっている歌です。
この歌には、「恋」「思ひ」「つれなき」などの、恋愛を表すはっきりとした言葉は一つもありませんが、儚い恋・悩ましい後朝の別れ・人の心のあてのなさといった、恋の要素をふんだんに盛り込んだ妖艶な恋の歌になっています。
また、「の」の繰り返しで言葉を重ねてリズムを作り、体言止めで余韻を残しています。
これは、『新古今和歌集』に多いスタイルです。「春の夜の夢」「浮橋」「別るる雲」などの言葉から、儚さや・頼りなさ・淡い色彩などが想起され、夢幻的な雰囲気の歌となっています。
「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」が詠まれた背景
この歌が、本歌取りという技法を用いて奥行きのある情緒を漂わせていることを前項で解説しました。
じつは、この歌の成立にあたって定家が下敷きにしたのは、有名な和歌だけではありませんでした。
この歌は、物語などからの影響も受け、先行する文学作品の持つイメージを援用して詠まれている歌なのです。そのあたりをもう少し掘り下げてみたいと思います。
まず、「夢の浮橋」という言葉に注目します。
『源氏物語』の最後の帖は「夢浮橋」というタイトルです。この帖では、悲恋に思い悩んで自殺未遂をした女性・浮舟と、貴公子・薫のかなしいすれ違いが描かれています。この「夢浮橋」で長編の『源氏物語』は幕切れとなります。男女はすれ違ったまま、どうなったのか読者にはわからない、やや唐突なエンディングです。
「夢の浮橋」と歌に詠み込むことで、『源氏物語』の浮舟と薫の悲恋のイメージを取り込むことができます。そして、浮舟と薫の物語は唐突に幕切れて、その先はわかりません。物語が唐突に途切れるイメージは、夢から突然覚めるイメージとだぶらせて「春の夜の夢の浮き橋とだえして」という歌の言葉にいかされているのです。
また、この歌は、春のあけぼのを詠んだ歌でもあります。「春」「あけぼの」といえば、『枕草子』の冒頭部分も有名です。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
(読み方:春はあけぼのの様子が好もしく思われる。だんだんと白んでくる山の上の空が、少しずつ明るさを増し、赤みを帯びた雲が細くたなびいている様子がすばらしい。)
この「むらさき立ちたる雲の細くたなびきたる」で表されている雲の様子が、「春の夜の夢の浮き橋…」の歌の、「横雲の空」とイメージがかぶります。
さらに、中国の漢詩との関連も指摘されています。『文選』(もんぜん)という中国の詩文集の「高唐賦」という詩にある、巫山(ふざん)の神女の故事です。(※故事・・・遠い過去から今に伝わる、由緒ある事柄)
古代中国、楚の国の王、懐王が高唐というところで余暇を過ごし、疲れて昼寝していると、夢の中女性があらわれ、王の寵愛を受けた。女性は、巫山(中国の重慶市と湖北省の境にある山。絶景で有名。)のむすめである、と名乗った。別れぎわ、女性は「私は巫山の峰の頂に住んでいます。朝は雲に姿を変え、夕べは雨に姿を変え、王のおわす館に参ります。」と告げた。
この中国の故事からも、儚い恋、夢からの目覚めと別れ、そして朝の雲というイメージが援用されて「春の夜の夢の浮橋…」の歌に生かされています。
以上のように、「春の夜の夢の浮橋…」の歌は、先行の和歌からの本歌取りのみならず、和漢の古典籍も受けた、ある意味衒学的な歌になります。
このように、技巧的で、衒学的な歌は、『新古今和歌集』の時代の歌の大きな特徴です。この「春の夜の夢の浮橋…」の歌は、『新古今和歌集』を代表する一首でもあります。
作者「藤原定家」を簡単にご紹介!
(藤原定家の肖像画 出典:Wikipedia)
藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した、貴族の歌人です。
応保2年(1162年)、藤原北家の流れを汲む、御子左家(みこひだりけ)の家柄に生まれました、高名な歌人藤原俊成(しゅんぜい・としなり)を父に持ちます。
若くして歌才を認められ、九条家という名家に家司(けいし。上流貴族、皇族の家の家政をあずかる職員。)として仕えながら、当時の歌壇の中心人物らとも交流をしていました。
後鳥羽院に歌才を見出され、建仁元年(1201年)には、後鳥羽院の命により、勅撰和歌集『新古今和歌集』の撰者のひとりに選ばれました。
その後、承久二年(1220年)、歌会での作が後鳥羽院の機嫌を損ねることになり、謹慎したこともありました。
時流の変化で、後鳥羽院が失脚。不遇の身だった定家も、再び歌人として世に出るようになりました。しかし、後鳥羽院の恩を忘れたことはなく、鎌倉幕府の御家人、宇都宮蓮生から、別荘のふすまの装飾のために、有名な優れた和歌を書いた色紙の作成をしてほしいと依頼されたときに、後鳥羽院、その子順徳院の和歌を色紙にしたためたといいます。この色紙に書いたとされる100首の和歌集が、今はかるたで親しまれている『小倉百人一首』です。
70歳を超えても、和歌への情熱は衰えることなく、貞永元年(1232年)、後堀河天皇から勅撰和歌集編集の命が下り、3年の歳月をかけて『新勅撰和歌集』を編集しました。
仁治2年(1241年)、80歳で死去したと言われています。
「藤原定家」のそのほかの作品
(藤原定家を祀る定家神社 出典:Wikipedia)
- 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
- 駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ
- 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
- かきやりし その黒髪の すぢごとに うちふすほどは 面影ぞたつ
- 大空は 梅のにほひに かすみつつ 曇りもはてぬ 春の夜の月
- 旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山の梯(かけはし)