『万葉集』は、奈良時代末期に成立の日本で最古の和歌集です。4500首以上の歌が全20巻に収められています。
『万葉集』以降の歌集は、上流階級の人々の歌がまとめられていますが、『万葉集』は庶民の歌や、方言で歌われた歌も含まれており、文学的な価値だけではなく、史料として大きな価値も持っています。
今回はそんな『万葉集』の中から庶民の歌「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」をご紹介します。
《宅急便が来る前の出来事》
なめこ「んふんふ」
我「ごめんよ、君達までは運べないんだ…。チョコボーあげるから泣かないで(泣)」
韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして pic.twitter.com/j5jCZVTDwC— ふるたまゆこ (@m4f5simarisu) March 27, 2015
本記事では、「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」の詳細を解説!
韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
(読み方:からころむ すそにとりつき なくこらを おきてそきぬや おもなしにして)
作者と出典
この歌は「防人の歌」です。
「防人(さきもり)」というのは、諸国から徴兵され、九州の国境防備にあたる兵士のことです。「防人の歌」というのは、防人に徴用された人本人、またはその家族が詠んだ歌の総称です。
この歌の出典は、『万葉集』(巻二十)です。『万葉集』巻二十には、防人の歌が多く収められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「衣服の裾にとりついて泣き叫ぶ子どもたちを置いて出てきてしまったことだ。あの子らにはすでに母もいないのに。」
となります。
防人として旅立ってきた男が、残された子どもらを心配する哀切な歌です。
文法と語の解説
- 「韓衣」
「韓衣」は、「からころも」と読む言葉ですが、この歌の万葉仮名の表記「可良己呂武」を見ると「からころむ」と読むことがわかります。この防人の住んでいた地方の方言での読み方です。
「韓衣」とは、「韓」つまり古代の中国風の服という意味で、防人の官衣でもありました。
- 「裾にとりつき」
「に」は格助詞。「とりつき」は、動詞「とりつく」の連用形です。
- 「泣く子らを」
「泣く」は動詞「泣く」の連体形。「を」は格助詞です。
- 「置きてそ来ぬや」
「置きてそ」は動詞「置く」の連用形「置き」+接続助詞「て」+係助詞「そ」です。
「来ぬや」は、「きぬや」と読みます。動詞「来(く)」の連用形「来(き)」+完了の助動詞「ぬ」の終止形+詠嘆の終助詞「や」です。
「置いてきてしまったものだ」と嘆く気持ち・心配する気持ちを込めて強く言い出された言葉です。
- 「母なしにして」
「母」は、「おも」と読みます。昔の読み方です。
「なしにして」は形容詞「なし」の終止形+格助詞「に」+逆接の接続助詞「して」です。
「母もいないのに」という意味になります。この歌を詠んだ男性は妻を亡くし、男手でこどもらを育てていたことが分かります。
「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中で大きく意味が切れるところを言います。普通の文でいえば、句点「。」がつくところです。読むときにもここで間をおいて読むことになります。
この歌は、四句目「置きてそ来ぬや」で一旦意味が切れますので、「四句切れ」の歌です。
倒置法
倒置法とは、普通とは言葉の並びをあえて逆にして、印象を強める表現技法です。
この歌の四句と結句は、普通の言葉の並びでいえば「母なしにして置きてそ来ぬや」(母もいないのに、置いてきてしまったことだよ。)となります。
しかし、今回のように倒置法を用い語順を逆にすることで、子どもを心配する哀切な親心をより印象的に表しています。
「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」の鑑賞
この歌は、防人となって我が子と離れ離れにならなければならない父親の苦しみを詠った歌です。
父である自分が家を出て、母もいない家庭に、子どもだけが取り残されるという過酷な状況です。父親は、身を切られる思いでこの歌を詠んでいます。
現代と違い、社会福祉制度などはありません。残された子どもたちがどのように生活していくのか、旅立つ父親には心配しかなかったことでしょう。
防人となった父親も生きて帰れるかどうかわからず、母親もいない状態で取り残された子どもたちもどうなってしまうかわからりません。
父親の衣服に取りすがって泣いた子どもたちの哀切な鳴き声が響いてくるような、悲しい悲しい歌です。
「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」が詠まれた背景
防人とは、古代の国境警備のための徴兵制度です。『大宝律令』(大宝元年(701年))、『養老律令』(天平宝字元年(757年))で定められました。
防人は唐(古代中国の国名)の侵攻を防ぐために、諸国から兵士が集められ、九州の国境を警備。任期は3年と定まっていましたが、延長されることもよくありました。
国ごと集められた防人は、自費で難波(大阪)まで赴きます。難波から九州へ船で運ばれ、役に付きます。任が解けても、すべて自力で郷里へ帰ることになっており、旅の途中で客死してしまう人も多くいました。
『万葉集』巻二十には、防人の歌が多く集められています。
これらは、『万葉集』編纂に大きく関わったとされる大伴家持が蒐集したものだと考えられています。巻二十の防人の歌の多くが、天平勝宝7年(755年)に防人の交代で筑紫(福岡県)に派遣された防人たちの歌である、という詞書がついています。この時、大伴家持は、兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)という、難波の港(大阪府)で諸国から集められた防人たちを検閲し、筑紫に向かう船に乗せる仕事をしていました。
詞書によると、この「韓衣…」の歌は、「他田舎人大島(おさだのとねりおおしま)」という名の防人が詠んだものだということです。
また、詞書にこのような記述もあります。
「信濃の国の防人部領使(さきもりことりづかい)、道にて病を得て来たらず。進れる歌の数十二首。但しつたなき歌九首は取載げず。」
信濃の国は、長野県のこと。防人部領使(さきもりことりづかい)は、地方から難波まで防人を引率していく役人のことです。
つまり、「引率の役人が道中病気になってしまったが、十二首の歌を集めて送ってきた。その中のつたない歌は取り上げず、優れた歌三首を『万葉集』に掲載した、そのうちの1首の歌である」ということです。
大伴家持は、地方の役人を通じて歌を集め、良いものを選りすぐって歌集に編みました。大伴家持は、一人の防人の名前とその歌を、1200年以上もの時を経て、現代のわれわれにも伝えているのです。
防人の歌を集め『万葉集』に収めたといわれている「大伴家持」について
(大伴家持 出典:Wikipedia)
「韓衣…」の歌を詠んだ信濃の国の「他田舎人大島(おさだのとねりおおしま)」という人物については、『万葉集』に載っている歌以外にわかっていることはありません。ここに取り上げられることがなければ、名前さえも忘れられて歴史に埋もれていった庶民のひとりです。
「他田舎人大島(おさだのとねりおおしま)」をはじめとして、防人たちの歌を『万葉集』に入れることで古代の庶民の暮らし、想い、言葉を現代に伝えた大伴家持の功績はとても大きなものです。
大伴家持(おおとものやかもち)は、養老2年(718年)頃から延暦4年(785年)を生きたとされる奈良時代の貴族であり、歌人です。
宮中の役人として、様々な職を歴任、地方に任官した時はその地方の風物を歌に詠み、防人や農民の歌にも耳を傾けて収集しました。
『万葉集』巻20には、天平勝宝7年(755年)に防人の交代で筑紫(福岡県)に派遣された防人たちの歌が90首ちかく載っています。大伴家持は地方の役人らも通じて150首を超える歌を集め、その中から選んで優れた歌を『万葉集』に取り上げているのです。
『万葉集』は、質、量ともに日本文学史上とても重要な歌集なのですが、成立の事情はあまり明らかではありません。しかし、大伴家持は『万葉集』の成立にも大きくかかわっていると考えられています。
実は、大伴家持の死の直後、大伴氏は藤原種継暗殺事件に関わったと弾劾されました。すでに亡くなっていた家持まで、一族の罪に連座して官職を削られ、埋葬すらも許されないという罰を受けたのでした。二十年あまりして、恩赦により復位せられました。『万葉集』成立の事情がつまびらかではないのは、この事件の影響があったためではないかと考えられています。
「防人の歌」のそのほかの作品
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