都会では降るような星を見る機会などほとんどありません。
空一面に宝石のように広がる星空を見れば、どんな人でも心動かされ、あたたかく優しい気持ちになるのではないでしょうか?
近現代の有名な歌人たちもまた、美しい星空に心を奪われ、数々の名作を世に残しています。
今回は、近代の短歌・俳句といった詩歌の基礎を築くという偉業を成し遂げながらも夭逝した天才・正岡子規の歌「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」をご紹介します。
真砂なす
数なき星の其の中に
吾に向ひて
光る星あり
正岡子規#折々のうたー春夏秋冬ー冬 #竹の里 #正岡子規 pic.twitter.com/eUZ9IuwY0C
— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) December 15, 2018
本記事では、「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」の詳細を解説!
真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向ひて 光る星あり
(読み方:まさごなす かずなきほしの そのなかに われにむかひて ひかるほしあり)
作者と出典
この歌の作者は「正岡子規(まさおかしき)」です。正岡子規は江戸時代までの俳諧や和歌もよく研究し、短歌、俳句の革新運動を進めた天才です。
また、この歌の出典は『竹乃里歌』です。
明治37年(1904年)刊。正岡子規の死後にまとめられた遺稿集です。この歌は、明治34年(1901年)の十首の連作「星」の冒頭の短歌です。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「砂のように無数に散りばめられた星の中から、私に向かって光る星がある」
という意味になります。
正岡子規は、写実主義の歌人として知られています。この歌は、子規が病床から窓越しに見えた星空に触れて、感じたままをストレートに詠んだ美しい歌です。「私に向かって光る星」が何であるのか、解釈は読む人によって異なりますが、明日への希望を感じさせる優しさがある一首です。
文法と語の解説
- 「真砂」
真砂とは、細かな砂のこと。
- 「なす(成す)」
「なす(成す)」は、ある形・状態などをしている。形づくる。形成する。
- 「数なし」
数限りがない。
「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。
この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。
表現技法
表現技法として目立つような技法は用いられていません。
「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」が詠まれた背景
正岡子規は慶応3年 (1867年) 生まれ、明治35年 (1902年) 没の歌人・俳人です。
子規は晩年の7年間は結核を患い、立って歩くことができませんでした。そのため、部屋から外の景色を眺めることを楽しみにしていました。
しかし、昔の家には窓というものがありません。部屋と外の間には障子だけがあり、それを閉めてしまうと外の景色を見ることができなかったのです。
そこで、明治33年 (1900年) 、仲間の俳人・高浜虚子が子規のために障子に替えてガラスの窓を作りました。こうして、子規は寒いときでも窓を通して外を見ることができると喜びました。
この歌は明治34年(1901年) に詠まれた歌ですので、おそらく寝床から夜の星を見上げて詠った歌なのでしょう。
不自由でつらい毎日。そんな中、窓越しではありますが、降るような星に触れた感動・喜びを詠い上げた感受性豊かな一首です。
「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」の鑑賞
「吾に向ひて光る星」とは、いったい何の隠喩なのでしょうか?ここでは、連作十首の「星」の2首目の短歌に注目してみたいと思います。 (※ちなみにこの歌は1首目です)
「たらちねの母がなりたる母星の子を思う光吾を照せり」
この歌では、空に見える星は「お母さんの星かもしれない」と思い、星の光は子を思う母の光であるのではないかと想像しています。
1首目の「光る星」は「母の光」とは限りませんし、そのような記述はどこにもありません。
しかし、2首目で感じられるあたたかさ、優しさ、希望に満ちた心を1首目でも感じることができます。
さらに注目したいのは、「星が私に向かって光っている」と感じ取ることのできる、研ぎ澄まされた感性です。普通の人は、空一面の星を見ても、綺麗だな・美しいなという感想しか出てきませんので、子規の並外れた感性がこの表現から垣間見ることができます。
また、子規は病んでいる自分について数多くの歌を残しています。自己を客観化することによって、苦しみを紛らわそうとしていたのかもしれません。それがさらに深まって、自然から「われが見られている」という感覚が表れてきたのです。
病床でも明日への希望を失わず創作にいそしんだ子規にとっての「吾に向ひて光る星」とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか?それは、母親かもしれませんし、支えてくれる友人、または、自分自身の前向きな気持ちかもしれません。
「吾に向ひて光る星」が何であるかは、読む人によって解釈が異なるでしょう。その人の置かれた立場、環境によっても変わってきます。
ある人にとっては、もうこの世にいない父母かもしれません。また、ある人にとっては、明日への希望、自分が輝くことができる新しい居場所かもしれません。
この歌は、子規にとっては非常に個人的な歌なのですが、読む人が美しい星空の描写からイメージをふくらませて、自分にとっての「吾に向ひて光る星」を感じ取ることができる、普遍的に多くの人の心を打つ優れた作品となっています。
作者「正岡子規」を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は明治時代に活躍した歌人であり俳人であり研究者です。慶応3年(1867年)、伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に、松山藩士正岡常尚と八重の長男として生まれました。
本名は常規(つねのり)、子規というのは雅号です。
幼少のころから、漢詩・俳諧などの文芸に親しみ、文明開化を迎えた明治時代に短歌や俳句の革命運動を進め、近代文学史に大きな業績を残しました。歌人としては、万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、「根岸短歌会」を主宰して短歌の革新につとめました。
たぐいまれなる才能を持った人物でしたが、若くして結核菌におかされ、喀血を繰り返しながら文学の道を邁進しました。
子規と言う雅号は、のどから血を流しつつ鳴くと言われるホトトギスと言う鳥の異名です。
晩年は病床にあって、なお盛んに創作活動を行い、明治35年(1902年)享年34歳の若さで死去しました。
「正岡子規」のそのほかの作品
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
- 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
- いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす
- 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
- ガラス戸の外のつきよをながむれどランプのかげのうつりて見えず
- 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
- 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものはあらじ