戦後の歌壇に奔放多彩な才能で切り込んでいった前衛歌人・「寺山修司」。
彼は三十一文字で表現する短歌の世界において、物語性に富んだ作品を多く残しています。
今回は、彼が残した歌の中から「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」という歌をご紹介します。
明日はコレなの。ってボスに見せたら「寺山修司かぁ。若い頃、金に困ってた時もあったんだろうな。この歌、いいな」って笑ってた。ボスがポケットに手を突っ込んで一人、橋を渡っている姿が寺山修司と重なる時がある。
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき/寺山修司『田園に死す』 pic.twitter.com/7A5StCc2X5— ちえぞう (@tsukiyonosan) February 6, 2018
本記事では、「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」の詳細を解説!
売りにゆく 柱時計が ふいに鳴る 横抱きにして 枯野ゆくとき
(読み方:うりにゆく かしらどけいが ふいになる よこだきにして かれのゆくとき)
作者と出典
この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。
青春をみずみずしい感性で歌い上げ、既存短歌に対するアンチテーゼのような作品は、今なお多くの人々に愛され続けています。
また、この歌の出典は、1965年(昭和40年)に刊行された第三歌集『田園に死す』です。
この頃の寺山は、高校生の詩の選者を務め、少女向け詩集を編集するなど「青少年のカリスマ」としての位置付けを強めていた時期で、寺山を代表とする歌集となりました。
現代語訳と意味(解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「売りに行く柱時計が不意に鳴る。横抱きにして枯野をいくときに」
という意味になります。
柱時計を売るという後ろめたさややりきれない思いで枯野を歩いている中、横抱きにした柱時計が、ふいに「ぼーん」と暗い音を響かせます。
まるで生き物の鳴き声のようで、この歌から醸し出される寂寥感を増幅させています。戦後の復興から取り残されたような物語性を感じる一首です。
文法と語の解説
- 「枯野(かれの)」
草木の枯れた冬の野原を指します。風が寂々と吹き、侘しく哀しい印象を持つ語です。
古くから歌に詠まれてきた季語であり、松尾芭蕉が詠んだ「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」がその後の枯野のイメージを決定付けたといわれています。
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。
この歌は三句目「ふいに鳴る」と終止形が用いられており、一旦歌の流れを句切ることができるので「三句切れ」となります。
倒置法
倒置法とは、語や文の順序を逆にし、意味や印象を強める表現方法です。短歌や俳句でもよく用いられる修辞技法のひとつです。
この歌を意味どおりに文を構築すると・・・
「枯野ゆくとき横抱きにして売りにゆく柱時計がふいに鳴る」
という語順になります。
しかし、今回はあえて語順を入れ替えることで読み手にインパクトを与え、「枯野ゆくとき」に込められた寂しげな心情を強調しています。
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」が詠まれた背景
寺山は当初から自分の生活や現実の風景を歌に託すというよりは、「絵になる風景」を描き出し、自己表現の手段として詠む傾向がありました。
自身の感情を増幅させ、事実と虚構が入り混じる世界を構築する歌風は、寺山が29歳の頃に刊行された第三歌集『田園に死す』でより明瞭になります。
この歌集に収められている短歌は、北国の暗く寂しい風土を舞台に、仏壇や間引き、義眼、真っ赤な櫛など、不吉な言葉の並べ、孤独や不安を煽る世界を創り出しています。
さらには存命であった母親は亡くなったことにし、一人っ子であるはずの寺山の弟や姉まで登場させていることから、徹底した虚構性の執着が感じられます。
こうした背景を考慮すると、この歌も事実かどうかはさほど重要ではなく、寂しく暗い印象を喚起する言葉を並べ、やるせない雰囲気を醸し出していることに重きを置いていると解釈できます。
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」の鑑賞
この歌は分かりやすい表現で詠まれており、切ない心情がストレートに胸を打つ作品です。
「売りにゆく柱時計」というフレーズからは、よっぽど生活が困窮している様子が伺えます。この柱時計を売らなければ、食べていくことすらできないのでしょう。
本来は「縦向き」に固定してある柱時計が、「横抱き」にされているところにも差し迫った精神状態が表現されています。
歩いている道の周囲には侘しい「枯野」が広がり、作者の心象風景を表しているようです。その道中、突如柱時計の鐘が鳴るのですが、「ふいに」という言葉から一種の驚きが伝わります。
本来鳴るはずがない音が聞こえたことで、柱時計は単なる「もの」ではなくなり生命を持っているかのように描かれているのです。その音色は、柱時計の最後の悪あがきとも言えるような自己主張や、主人への別れを告げる挨拶のようにも感じられます。
迫るような沈痛さが伝わる歌ですが、「寂しい」や「切ない」といった直接的な表現はこの歌の中には一語も用いられていません。
その代わり陰影のある言葉を並べ、言外に匂わせることで寂寥感を醸し出すことに成功しているのです。まさに「言葉の錬金術師」と称された寺山らしい作品だといえるでしょう。
作者「寺山修司」を簡単にご紹介!
(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia)
寺山修司(1935年~1983年)は、「昭和の啄木」「言葉の錬金術師」などの異名で戦後の日本を駆け抜けた歌人です。
友人・京武久美の影響により中学生のころから詩を作りはじめ、早熟の才能を開花させます。その後1954年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の「乳房喪失」に感銘を受け、本格的に詩作に励むようなりました。
「第二回作品五十首募集」に応募した作品で、短歌研究編集長の中井英夫に見出され、「チェホフ祭」で新人賞を受賞。若干18歳にして華々しい歌壇デビューを飾りました。
しかし翌年ネフローゼ症候群のため19~22歳までの間入院生活を余儀なくされ、早稲田大学も中退することとなります。一時は危篤状態に陥りましたが奇跡的に回復、入院中に中井英夫の尽力により、第一作品集『われに五月を』を出版しました。
1958年『空には本』、1962年『血と麦』、1965年『田園に死す』の三冊の歌集を出版しますが、寺山が精力的に短歌を作り続けた期間は短く、デビューから10年あまりに過ぎませんでした。
寺山は本業は何かと問われると「職業は寺山修司です」と名乗ったように、映画監督、小説家、作詞家、脚本家など、あらゆる分野で活躍します。中でも演劇には情熱を傾け、「天井棧敷」を主宰し国際的にも大きな反響を呼びました。
創作活動を通じて時代に一石を投じ衝撃を与え続けましたが、敗血症により47歳の若さでこの世を去りました。
「寺山修司」のそのほかの作品
(寺山の墓 出典:Wikipedia)