【不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

明治時代に彗星のように現れて詩歌を詠み、若くして病に倒れて歌人「石川啄木」。

 

彼の死後100年以上を経て、いまなお人気の高い歌人です。抒情的でロマンチックな短歌をたくさん詠みました。

 

今回は石川啄木の短歌の中から、繊細な感性で思春期の心を詠んだ歌、「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」をご紹介します。

 

 

本記事では、「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」の詳細を解説!

 

不来方の お城の草に 寝転びて 空に吸はれし 十五の心

(読み方:こずかたの おしろのくさに ねころびて そらにすわれし じゅうごのこころ)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。

 

啄木は明治期の詩人でもあり、歌人でもありました。貧困や病と闘いながら、26年で短い生涯を閉じた薄倖の歌人として知られています。。

 

この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(第二部:「煙 一」)です。明治43(1910)12月に刊行された歌集です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「不来方城の城跡の草に寝転んで、空を眺めていると、心が空に吸い込まれそうに思った15歳のころよ。」

 

となります。

 

「不来方(こずかた)のお城」とは、岩手県にある「盛岡城」を指します。「不来方」とは、盛岡を指す古代からある古い地名。盛岡城も、そもそもの創建当時は「不来方城」と言われていました。

 

「不来方」という地名は、昔にこの地人里を荒らす鬼がいましたが、三ツ石神社の神にこらしめられ、この地には二度と来ないと誓ったという伝承からきています。

 

「鬼が二度と来ない方向」の意味で、「不来方」という地名になったと言われています。「不来方」は、現在でも盛岡の雅称とされています。

 

文法と語の解説

  • 「不来方の」

「の」は、連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「お城の草に」

「の」は、連体修飾格の格助詞。「に」は存在の場所を表す格助詞です。

 

  • 「寝転びて」

動詞「寝転ぶ」の連用形「寝転び」+接続助詞「て」です。

 

  • 「空に吸はれし」

「に」は受け身の相手を示す格助詞です。

「吸はれし」は、「吸ふ」の未然形「吸は」+受け身の助動詞「る」の連用形「れ」+過去の助動詞「き」の連体形「し」で構成されています。

 

  • 「十五の心」

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」の句切れと表現技法

盛岡城

(盛岡城 出典:Wikipedia

句切れ

一首の中で、意味の上で大きく切れるところを句切れといいます。読むときにも、少し間を置く漢字と読むことになり、リズム上の切れ目でもあります。

 

句切れは、普通の文でいえば句点「。」のつくところにあたります。

 

この歌は句切れがありませんので、「句切れなし」です。

 

思春期の少年の一途な心そのままに、一息に詠まれています。

 

体言止め

体言止めとは、文末を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。文を断ち切ることで言葉が強調され、「余韻・余情を持たせる」「リズム感をつける」効果があります。

 

この歌は「十五の心」で終わっています。思春期の心の揺らぎ、愁いといったものを体言止めで抒情性豊かに表現しています。

 

隠喩(暗喩)

「隠喩(暗喩)」は、「~のような」「~のごとし」といったような比喩言葉を使わずに物事を例える表現技法のことです。

 

例えば、「北風が冷たい刃になって突き刺さる」という言い方は暗喩です。

 

(※暗喩に対して、「~のような」「~のごとく」などの言葉を用いたたとえ表現を直喩と言います。例えば、「北風は冷たい刃のようになって、まるで私の体に突き刺さるかのように吹いてくる」という言い方は直喩です)

 

この歌で「空に吸はれし十五の心」とありますが、もちろん本当に空に心が吸い込まれるわけではなく、「まるで吸い込まれてしまうような気がする」というたとえです。

 

「空に吸はれし十五の心」と言い切る潔さで、思春期の心をより印象的に表現しようとしています。

 

「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」が詠まれた背景

(盛岡城にある石川啄木歌碑 出典:Wikipedia)

 

この歌は、歌集『一握の砂』の第二部「煙 一」にある歌です。

 

「煙 一」では、ふるさとの思春期の日々・学生生活を回想した歌が多く収められています。

 

この歌の前の一首を紹介します。

 

教室の窓より遁(に)げてただ一人かの城址(しろあと)に寝に行きしかな

(意味:教室の窓から逃げ出して、たった一人であの城跡に寝転びにいったものだなあ。)

 

この歌から、作者の石川啄木は教室から抜け出していることがわかります。15歳といえば、支配的なものに、反発したくなる年ごろでもあります。教室を飛び出し、一人になれる場所を求めて城跡に向かったのです。

 

この歌は、啄木が15歳の時に詠んだのではなく、大人になってから、15歳のころの自分を回想して詠んだ歌になります。

 

「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」の鑑賞

 

この歌は、思春期の少年の揺れる気持ち、愁い、物思いにふける様子が印象的に詠まれています。100年以上前の歌ですが、今なお多くの人々の心に届き、共感を呼ぶ歌です。

 

「不来方のお城」は、盛岡城のことですが、これが「盛岡のお城の草に…」だったとしたら、雰囲気が壊れてしまいます。「不来方」という言葉が、思春期らしい不安定な雰囲気を作り出しています。

 

「不来方」という地名だったのはたまたまではありますが、なんとなく字面から、行くつくところが見えず、迷っているような雰囲気があります。なんとなく物語性を感じさせるような地名なのです。

 

空に吸われていったのは、学校や教師に対する反発だったり、自分でも説明しにくい苛立ちであったり、焦りであったり、ぼんやりとした不安だったのでしょうか。成長の過程で、だれしもが感じたことのある、ほろ苦い、切ない思いが伝わってきます。

 

一人、古城跡の草原に寝転んだ時間は自分との対話の時間であり、青春の一コマとして作者の心に深く刻まれているのです。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治後半に活躍した詩人・歌人です。本名は石川一(いしかわ はじめ)です。

 

明治19(1886年)に岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)の寺院の住職の家の子として生まれました。育ちは渋民村(現盛岡市渋民)です。

 

盛岡中学に在籍中の10代前半のころに詩歌雑誌『明星』を愛読、与謝野晶子らの短歌や詩に親しみます。地元の新聞『岩手日報』や、『明星』に、作品が掲載されるようになり、明治35年(1902年)文学を志して上京。しかし2年後には志半ばにして、結核の療養のために帰郷します。

 

1905年には、寺の住職を務める父が金銭トラブルを起こし、故郷渋民村を出ることになりました。盛岡で教員をしたり、北海道に渡って新聞社に勤めるなどしたあと、明治41(1908)再び上京を決意します。新聞社に勤務しながらも、文筆活動も続けます。生活は楽ではなく、貧困、病、家族の不和などの苦労が絶えませんでした。

 

明治43(1910)、第一歌集『一握の砂』を刊行しました。しかし、明治45年(1912年)413日、石川啄木永眠。享年26歳の短い生涯でした。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)