詩人であり、作詞家としての才能もあわせもった歌人「北原白秋」。
明治の終わりから昭和10年代に活躍しました。
今回は北原白秋の第二歌集『雲母集』から「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」をご紹介します。
🍒 石崖に 子ども七人 腰かけて 河豚を釣り居り 夕焼小焼 🍬 北原 白秋 pic.twitter.com/2zfmTJbmdv
— 九州産業大学機械工学科 (@KSUMEC) January 24, 2017
本記事では、「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」の詳細を解説!
石崖に 子ども七人 腰かけて 河豚を釣り居り 夕焼小焼
(読み方:いしがけに こどもしちにん こしかけて ふぐをつりおり ゆうやけこやけ)
作者と出典
この歌の作者は、「北原白秋(きたはらはくしゅう)」です。この歌は、白秋が神奈川県の三浦半島に住んでいたころの詠です。
また、この歌の出典は、大正4年(1915年)刊北原白秋の第二歌集『雲母集(きららしゅう)』です。
この歌集には三浦半島の三崎の自然を詠み込んだ歌がおさめられています。ロマン主義的、唯美的な第一歌集『桐の花』に比べて、自然主義的な歌が多くなっています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「海岸の、石の崖に子どもが七人こしかけて、フグをつっていることよ。空には夕焼けが広がっている。」
となります。
この歌は、海辺の長閑な光景を詠みあげています。夕焼け空の下、子どもが腰を下ろして魚を釣っているという平和な叙景歌で、リズムもよく、北原白秋の歌の中でもとても親しまれている短歌のひとつです。
文法と語の解説
- 「石崖に子ども七人」
「に」は格助詞です。
- 「腰かけて」
動詞「腰かける」の連用形「腰かけ」+接続助詞「て」です。
- 「河豚を釣り居り」
「河豚」は「フグ」と読みます。フグは敵が来ると、砂や海水を吸い込んで体を膨らませる習性がある魚です。毒があり、食用にするときは注意が必要です。
「釣り居り」は、動詞「釣る」の連用形「つり」+動詞「居る」の連用形「おり」です。
- 「夕焼小焼」
「夕焼け」という意味です。「小焼け」に大きな意味はありません。しかし、「ゆうやけこやけ」とすることで、「やけ」の繰り返しが耳に心地よく7文字になってリズムが良くなります。
「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」の句切れと表現技法
句切れ
短歌の中の大きな意味の切れ目を句切れといいます。
この歌は、四句目「河豚を釣りをり」で一旦意味が切れますので、「四句切れ」の歌になります。
体言止め
体言止めとは、文の終わりを体言、名詞で止めて余韻を残す表現技法です。
この歌は下の句を「夕焼小焼」とし、体言止めにしています。
子どもたちの上に広がるうつくしい夕焼け空を印象的に表現しています。
「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」が詠まれた背景
この歌は、北原白秋の第二歌集『雲母集』の中の「海峡の夕焼け」という連作短歌の一首です。
北原白秋は、大正2年(1913年)の春ころから、1~2年、神奈川県三浦半島の三崎に住んでいました。『雲母集』は、三崎に住んでいたころの歌を集めたものです。
ここで、連作「海峡の夕焼け」から、この歌に続く二首をご紹介します。
二本づつ鯖を投げ出す二本の手そろうて光りてありにけるかも
(現代語訳:二本ずつ漁でとれたサバを投げ出して二本の手が、そろって光っていておもしろいことだ。)
桟橋にどかりと一本大鮪(おおまぐろ)放(ほお)り出されてありたり日暮
(現代語訳:桟橋の上に、どかりと一本、大マグロがほおり出されている。そして、あたりはもう日暮れている。)
上記のように、夕ぐれを迎えた漁村の様子を詠んだ歌が続きます。「河豚」「鯖」「鮪」と魚の名前を具体的に詠みこむことで、豊かな漁村、三崎の情景が印象的に描き出されています。
北原白秋の第一歌集『桐の花』(大正2年(1913年))は、都会を詠んだ歌が多く、モダンで、西洋趣味にあふれた歌が目立ちます。
しかし、第二歌集『雲母集』は、三崎の海辺の自然の姿や、人々の暮らしをつぶさに観察して絵を描くように詠んだ歌が多くなりました。『桐の花』の官能的・唯美的な歌風から、自然主義的な歌風への変化が見られます。
北原白秋の好んだフレーズ「○○小○○」
また、この「石崖に…」の歌の雰囲気を作り上げている言葉に、結句の「夕焼小焼」がありますが、大正11年(1922年)の「お祭り」という北原白秋作詞の童謡の歌詞にも「真っ赤だ真っ赤だ夕焼け小焼けだ」というフレーズがあります。
北原白秋は「○○小○○」というフレーズを好んだようで、大正7年(1918年)創刊の童謡雑誌『赤い鳥』創刊号には「栗鼠栗鼠小栗鼠(りすりすこりす)」という童謡、昭和7年(1932年)の『世界音楽全集』には「涼風小風(すずかぜこかぜ)」という童謡が書かれています。
ちなみに、有名な童謡に「夕焼け小焼けで日が暮れて…」という歌い出しで始まる「夕焼け小焼け」がありますが、この作詞は中村雨虹で、大正12年(1923年)に発表されたものです。
「石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼」の鑑賞
海辺の村の穏やかで平和な子どもたちのいる光景を、テンポよくなめらかにうたい上げています。
また、「つりおり」の「り」の繰り返し、「ゆうやけこやけ」の「やけ」の繰り返しが独自のリズムを生み出し、口ずさみやすく、覚えやすいノリのいい短歌です。
そして、「七人」「河豚」といった具体的な数字や魚の名前を挙げて詠むことで、歌の描き出す世界をリアルに感じ取ることができます。
夕焼け空の下、子どもが7人で、仲良くにぎやかに河豚をつっている様子が映像のように読者の目にも浮かんでくるようです。
童謡のような、やわらかでのどかな雰囲気をもった一首です。
作者「北原白秋」を簡単にご紹介!
(北原白秋 出典:Wikipedia)
北原 白秋(きたはら はくしゅう)は、明治18年(1885年)の生まれの福岡県出身の人物で、詩人、歌人として知られます。本名は隆吉(りゅうきち)です。
10代半ば、雑誌『明星』の抒情的な詩や短歌にはまりました。明治37年(1904年)早稲田大学英文科予科に入学。早稲田大学では、同郷の歌人の若山牧水や歌人の中林蘇水と親しくなりました。北原隆吉が射水という号も使っていたことから、牧水・蘇水・射水の三人は「早稲田の三水」と称されました。
明治39年(1906年)、雑誌『明星』を発行していた新詩社に参加します。新詩社を率いる与謝野鉄幹・晶子夫妻、石川啄木らとも親交を深めました。
明治41年(1908年)にはパンの会の中心人物となります。パンの会とは明治の末期に、若手の芸術家が集った集まりです。
明治42年(1909年)には雑誌「スバル」の創刊に参加。同年の処女詩集『邪宗門』は官能的・唯美的な詩風が話題となりました。大正2年(1913年)の処女歌集『桐の花』も、耽美的な路線を踏襲、感傷的情緒にあふれたロマンチックな歌風で歌壇に衝撃を与えました。
白秋が生まれたころは裕福な造り酒屋だった福岡の実家が破産する、人妻であった俊子との密通を訴えられて収監され、その後、俊子と結婚するも間もなく離婚するなど、山あり谷ありの人生を歩みました。
白秋は、詩人・歌人として活躍しただけでなく、数々の童謡の作詞も手掛け、今でも歌い継がれている名曲も多くあります。
晩年は糖尿病や腎臓病に悩まされ、病床で筆をもちつづけました。しかし、昭和17年(1942年)57歳で逝去しました。
「北原白秋」のそのほかの作品
(北原白秋生家 出典:Wikipedia)
- 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
- 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕
- しみじみと物のあはれを知るほどの少女となりし君とわかれぬ
- 草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
- 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
- 白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬に
- 深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花
- ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日
- 廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける
- 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
- ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋