【友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

明治時代、抒情的な歌風で知られ、若くしてこの世を去った人気歌人「石川啄木」。

 

今回は石川啄木の短歌の中から「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」という歌をご紹介します。

 


本記事では、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」の詳細を解説!

 

友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ

(読み方:ともがみな われよりえらく みゆるひよ はなをかいきて つまとしたしむ)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。明治時代中期に活躍し、若くしてこの世を去った、詩人でもあり歌人でもありました。

 

また、この歌の出典は石川啄木の第一歌集『一握の砂』です。

 

歌集は明治43(1910)12月刊行、この歌は【第一部:我を愛する歌】に収められています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「友がみな、自分より優れ立派だなあと思われる日は、花を買って帰り、妻と親しく語らうことだ。」

 

となります。

 

日々の暮らしの中でふと周りと自分を比べて、何とはなしに劣等感に襲われます。そんなへこんでしまった時、心を潤わせるものとして花を求め、妻と花を見て語り合い、心を癒す。そんな一人の男の姿がえがかれた歌です。

 

文法と語の解説

  • 「友がみな」

「が」は格助詞です。

 

  • 「われよりえらく」

「われ」は私。「より」は副助詞です。

「えらく」は形容詞「えらし」の連用形です。「えらし」とは、普通よりもすぐれている、社会的な身分や地位が高いことを言います。

 

  • 「見ゆる日よ」

「見ゆる」は動詞「見ゆ」の連体形です。「よ」は詠嘆の終助詞です。

 

  • 「花を買ひ来て」

「を」は格助詞です。

「買ひ来て」は、動詞「買ふ」の連用形の「買ひ」+動詞「来(く)」の連用形「来(き)」+接続助詞「て」です。

 

  • 「妻としたしむ」

「と」は格助詞です。「したしむ」は、動詞「したしむ」の終止形です。

 

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」の句切れと表現技法

句切れ

一首の中の大きな意味の切れ目を、句切れといいます。普通の文でいえば、句点「。」がつくところが句切れになります。

 

この歌は、三句目「見ゆる日よ」で一度意味が切れますので、「三句切れ」の歌となります。

 

上の句で、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ。」と内面を吐露し、句切れで一息置いて、下の句で「花を買ひきて妻としたしむ」と気持ちを切り替えています。

 

表現技法

用いられている表現技法は特にありません。

 

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」が詠まれた背景

 

石川啄木は子どものころは神童ともよばれ、優秀な子でした。盛岡中学校に在籍中、文芸雑誌『明星』に傾倒しますが、成績は低下。ストライキ運動にも参加し、ついにはカンニング事件を起こして自主退学しました。

 

その後、石川啄木は16歳の頃文学にあこがれ上京したとされますが、実際には学業の挫折がその裏にありました。東京での努力は実を結ばず、結局2年後に帰郷したのでした。

 

明治38年(1905年)、渋谷村宝徳寺住職だった父が宗費を滞納、罷免され寺を出るという出来事が起こります。一家は苦しい立場におかれ、石川啄木は職を転々とし、明治41年(1908年)2度目の上京を決意します。

 

石川啄木は、挫折や失敗、失望を繰りかえして上京したのです。

 

一方で、石川啄木の周りには多くの友達がいました。

 

『一握の砂』には、「宮崎郁雨」と「金田一京助」という友人に捧げる献辞がありますが、2人とも物心両面から石川啄木を支えた人物です。

 

宮崎郁雨は函館の人物で、非常に近しい関係を結んだ友人でした。金田一京助は、中学校の先輩です。石川啄木は函館の宮崎郁雨に妻子を託し、金田一京助を頼って単身上京しました。

 

石川啄木の葬儀は友人たちが手配、第二歌集『悲しき玩具』は友人土岐哀果らの尽力によって出版されました。

 

石川啄木は友に恵まれつつも、我が身を比較して劣等感に苛まれることもあったのでしょう。そんな時には、最も身近にいる妻と花を見て語り合うのだ、と石川啄木は詠んでいるのです。

 

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」の鑑賞

 

この歌は、日々の暮らしの中で、ふと感じた心弱さ・劣等感・忸怩たる思いに向き合い、素直に表現した歌です。

 

花を買って眺めたところで何かが変わったり、解決したりするわけではなく、自分までえらくなるわけではもちろんありません。

 

しかし、心がささくれた時に花をわざわざ買ってきて心の慰めにしようという趣向が、都会的、文化的な趣味を感じます。

 

石川啄木は、外交的で友人も多かった分、ふと内向的な思いにとらわれると相手ができるのは妻だけだったのかもしれません。実際の石川家の生活は非常に苦しく、わざわざ花を買って楽しむような余裕は実際にはなかったのではないかと思われます。

 

また、啄木自身、妻と自分のために花を買うような家庭的な夫ではなかったようです。

 

現実はどうあれ、悩める時には花を買って心の慰めとし、妻と語らう都会的で文化的な文学青年としての自己像を歌によって描き出したのかもしれません。

 

どんな人でも時には周りと自分を比べて劣等感を抱いたり、むなしくなったり、気持ちが落ち込むことがあるでしょう。

 

今から100年以上も前に詠まれた短歌ですが、現在でも多くの人の共感を呼び、親しまれている一首です。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治時代末期に活躍し、大正の幕開けを見ることなくこの世を去った歌人、詩人です。本名は石川一(いしかわ はじめ)といい、明治19(1886年)に岩手県に生まれました。

 

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)の寺院の住職の家に生まれ、そののち住職をつとめる父の転任にともなって渋民村(現盛岡市渋民)に転居します。

 

10代のころ、文芸雑誌『明星』を耽読、与謝野晶子らの短歌に傾倒しました。明治35年(1902年)、地元の中学を中退して、文学を志して上京。しかし、2年後に病を得て帰郷します。

 

明治38(1905)には、父の金銭トラブルにより、故郷渋民村を出ることとなりました。同じ年に、第一詩集『あこがれ』を自費出版、幼馴染の堀合節子と結婚をしました。

 

両親、妹、妻らとの暮らしを支えるため、教員をしたり、北海道に渡って新聞社に勤めるなど、職を転々とします。

 

しかし、明治41(1908)職場への不満や、創作活動へのあこがれから再び上京。働きながら創作活動も続け、明治43(1910)、第一歌集『一握の砂』を刊行しました。

 

第二歌集刊行の話も出ていたのですが、結核に冒された石川啄木は、明治45年(1912年)に26歳で永眠。

 

石川啄木の人生は、短く波乱に富み、決して穏やかなものではありませんでした。故郷を追われ、貧困や病気と闘いながらも詠まれた歌の数々は今なお多くの人の共感を呼んでいます。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)