短歌は、作者が思ったことや感じたことを5・7・5・7・7の31音で表現する定型詩です。短い文字数の中で心を表現する短歌は、あの『百人一首』が作られた平安時代に栄えていたことはもちろん、現代でも多くの人々に親しまれています。
今回は、与謝野晶子の歌「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」をご紹介します。
『柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや 道を説く君』。素敵な女性にこんな事言われたら俺はもう、すしざんまい。真木よう子が好き過ぎて呼吸困難。 pic.twitter.com/QacoAVB2mz
— 臼井 翔馬 (@us050601) December 8, 2013
本記事では、「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」の詳細を解説!
柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君
(読み方:やわはだの あつきちしおに ふれもみで かなしからずや みちをとくきみ)
作者と出典
この歌の作者は「与謝野晶子(よさのあきこ)」です。
歌人であり評論家で、明治から大正、昭和にかけて活躍しました。情熱的な歌風が当時では珍しく、賛否両論を巻き起こし話題となりました。日露戦争中の反戦的な詩〈君死にたまふことなかれ〉も有名です。
また、こちらの歌の出典は『みだれ髪』です。
作者:与謝野晶子の第一歌集で、1901年(明治34年)8月、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表されました。女性の恋愛感情をストレートに表現した作品の数々が収められています。官能的で大胆な表現も多く、「女性は慎ましやかにいることが良い」とされていた当時の道徳観には合わず批判の声も多かったようです。しかし評価する声も少なくはなく、結果的に与謝野晶子の名を日本全国に知らしめることとなりました。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「(私の)この柔らかい肌の熱い血のたぎりに触れてもみないで、さびしくはないのですか。人の道を語っているあなた。」
という意味になります。
この歌の主人公は女性です。女性の目の前で熱く人生を語っている男性に向けて詠んでいる歌です。
文法と語の解説
- 「柔肌の」
「柔肌」は文字通り柔らかい肌のこと。この歌では女性の肌・体のことを指しています。「の」は連体修飾格の格助詞です。
- 「あつき血潮に」
「あつき」は形容詞「熱い」の連体形。その熱いものが「血潮」です。「血潮」は潮のようにほとばしり出る血のことですが、比喩的に「熱血」「熱情」の意味ももちます。格助詞「に」は動作の対象を表しています。
- 「触れもみで」
品詞分解すると、動詞「触れる」連用形+係助詞「も」+補助動詞「みる」連用形+打消の接続助詞「で」となり、「触れることもしないで」という意味になります。
- 「悲しからずや」
形容詞「悲し」の未然形+打消の助動詞「ず」+疑問の係助詞「や」。「悲しくはないのですか」という意味です。
『みだれ髪』では「悲し」ではなく「寂し」と表記されていますが、現代まで伝えられるうちに「悲し」と表現したものも出回ってしまったのでしょう。「悲しい」は心が痛んで泣けてくるような気持ちのこと、「寂しい」は孤独や物足りなさで心細い気持ちのことなので、感情としては少し違うのではないかと思います。
- 「道を説く君」
「道」は、人の守るべき教えのことです。「君」は相手の男性を指します。与謝野晶子本人は、注釈で「道学者諸君」という意味だと述べていますが、平たく言うと「道徳を大切にしているあなた」というところでしょう。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」の句切れと表現技法
句切れ
この作品は四句切れの歌です。
切れ字である「や」がありますので、明確に句切れがあるといえるでしょう。
表現技法
この歌には目立った表現技法は用いられていません。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」が詠まれた背景
与謝野晶子は、のちに「最初の恋愛が殆ど私の生涯の全部」と語るほど、生涯を鉄幹との恋愛に捧げてきました。そのため、短歌もすべてが自身の経験から生まれたといえます。
「柔肌の…」の歌もその一首です。「君」が鉄幹なのかどうかは、明確に語られたわけではありません。一般的な多くの人に向けたという説もありますし、晶子と鉄幹とを引き合わせた住職なのではという説もあります。
しかし、晶子は自身の経験を歌にする歌人です。その晶子が生涯をかけた恋の相手ですから、おそらく鉄幹なのではないかと考えられています。
晶子は21歳の夏に大阪で鉄幹と出会ったとされています。当時鉄幹には内縁の妻・林滝野と子がいたので、晶子の恋愛の始まりは不倫でした。
『みだれ髪』には、「柔肌の…」以外にも、恋の喜び、罪悪感、葛藤や嫉妬をさらけ出して詠んだ歌が数多く収められています。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」の鑑賞
【柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君】は、女性が抱く熱い恋心と欲望を相手の男性にぶつけている歌です。
「柔肌」という単語だけで、生々しさを感じるこの歌。それは、続く言葉が「熱き血潮」という、情熱に満ちたものだからでしょう。
「柔肌の赤ちゃん」などとは全く言葉の意味が違ってきます。「触れてもみないで、悲しくはないのですか。」という問いは、かなり挑発的にも感じられます。
この語気の強さには、「私はこんなにもあなたに恋い焦がれて、触れてほしいと思っているのに!じれったい!」といった女性側の強い思いが込められているのでしょう。とてもストレートな愛情表現です。
「道を説く君」は、ここまで強く言われないと彼女の心に気付けないような性格のか…はたまた、気付かないふりをしているのかもしれません。恋の駆け引きが垣間見えるようにも思います。
明治時代には、このような強い女性像も珍しかったことから、この一首だけでも与謝野晶子の作品が話題になった理由がわかります。
作者「与謝野晶子」を簡単にご紹介!
(与謝野晶子 出典:Wikipedia)
1878年(明治11年)大阪府堺に菓子商の三女として生まれました。
本名は志よう(しょう)。堺の女学校を卒業後、家業を手伝いながら古典や歴史書に親しみ、詩や短歌を雑誌へ投稿していました。
1900年(明治33年)に雑誌「明星」が創刊されると、第2号に短歌を発表。同じころ、「明星」を刊行している新詩社を設立した与謝野鉄幹と出会い、恋に落ちます。そのとき鉄幹には内縁の妻がいましたが、翌年 晶子は家を捨てて鉄幹のいる東京へ。
二人は後に結婚しました。結婚の直前、自身の激しい恋愛の過程をつづった歌集『みだれ髪』を刊行。子どもに恵まれ、母・妻として忙しくしながらも、夫とともに新詩社の経営にあたりました。
雑誌「明星」が終刊し、生活の糧を得るために晶子は自宅で古典の講義を開くなど家族のために奮闘。後に『源氏物語』の現代語訳もしています。また、夫をフランス留学へ送り出したあと自身も渡欧して社会的視野を広げ、帰国後は女性評論家としても活躍しました。
「与謝野晶子」のそのほかの作品
(与謝野晶子の生家跡 出典:Wikipedia)