五七五七七の三十一文字で、自然美や人の心の機微、人生までをも詠みあげる「短歌」。
多くの歌人がすぐれた歌を残していますが、その中でも特に叙情性の高い歌を詠んだ名高い人物に「石川啄木」がいます。
今回は、明治時代の歌人・石川啄木の短歌の中から、「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」という歌をご紹介します。
砂山の砂に腹這ひ初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日 pic.twitter.com/mUbKBvHNB0— TRAFALGAR@2020年の挑戦 (@TRAFALGAR0096) August 8, 2015
本記事では、「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」の詳細を解説!
砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日
(読み方:すなやまの すなにはらばひ はつこいの いたみをとおく おもひいづるひ)
作者と出典
この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。明治時代、詩歌雑誌『明星』誌上に多く作品を発表した、詩人でもあり歌人でもありました。
この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(第一部:我を愛する歌)。明治43年(1910年)12月に刊行された歌集です。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「砂山の砂に腹ばいとなり、ふと初恋の痛みを遠い日の思い出として思い返す今日であることだ。」
となります。
文法と語の解説
- 「砂山の」
「の」は、連体修飾格の格助詞です。
- 「砂に腹這ひ」
「に」は存在の場所を表す格助詞です。「腹這ひ」は、動詞「腹這ふ」の連用形「腹這ひ」です。
「腹ばい」とは、お腹を下にして寝転ぶような格好のことを言います。
- 「初恋の」
「の」は、連体修飾格の格助詞です。
- 「いたみを遠く」
「いたみ」は痛みのこと。
「を」は目的語を表す格助詞。「遠く」は、形容詞「遠し」の連用形です。
- 「おもひ出づる日」
「おもひ出づる」は動詞「おもひ出づ」の連体形です。
「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」の句切れと表現技法
句切れ
この歌に句切れはありませんので、「句切れなし」です。
ふとよみがえった初恋のいたみの感情をため息とともに吐露するように一息に詠まれています。
体言止め
体言止めとは、歌の終わりを名詞、体言で止める表現技法です。
体言止めを使用することにより、文章全体のインパクトが強まり、作者が何を伝えたいのかをイメージしやすくなります。
この歌は「初恋のいたみを遠くおもい出づる日」と、終わっています。遠い日の初恋、そこで味わった痛みを余韻を持たせて表現しています。
「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」が詠まれた背景
歌集『一握の砂』は五部構成になっています。この歌は一部目「我を愛する歌」の巻頭から数えて6首目に載っている歌です。
この歌集の巻頭は以下の歌で、啄木の生き方や人生についてうたった歌ともいわれています。
「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
(意味:東海に浮かぶ小島の磯の、白い砂浜で、私は泣きながら蟹と遊んでいる。)
「蟹」が作者の文学や思想、哲学などのたとえで、作者は泣きながらそれらと戯れている、自分の人生はそんなものなのだという自己憐憫の歌であるという解釈です。
この巻頭の歌も含めて10首、砂浜の歌が並べられています。歌集の巻頭というのは、作者が自分をどういう人と見られたいか、セルフプロデュースしている部分も大きいと考えられますが、この『一握の砂』の巻頭10首はなかなか衝撃的です。
ここで、その一部をご紹介します。
「頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず」
(意味:頬に伝う涙をぬぐうこともせず、一握りの砂を示してくれた人のことを忘れることはない。)
「大海に むかひて一人 七八日 泣きなむとすと 家を出でにき」
(意味:広大な海に向かって、ただ一人で、七日から八日ほど泣こうと思って家を出て来たことだ。)
「いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて 掘りてありしに」
(意味:とても錆びたピストルが出て来た。砂山の砂を指で掘っていたら。)
「ひと夜さに 嵐来りて 築きたる この砂山は 何の墓ぞも」
(意味:一晩嵐が吹き荒れて出来上がった砂山はいったい何の墓標であるのだろうか。)
泣きながら苦しむ姿、死への念慮といったようなことが繰り返し歌に詠まれています。
そして、今回取り上げる歌、「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」につながります。
一転して甘美な追想のようですが、どこか陰りのある不幸な失恋を思わせる歌です。
どの歌も、具体的な現実の景を詠んでいるというよりは、作者の内面世界をイメージしたものと思われます。
感傷的でロマンチックな文学者としての作者なりのセルフプロデュースなのでしょう。
「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」の鑑賞
この歌は、体言止めが印象的な、甘く切ないイメージのあるロマンチックな歌です。
歌集『一握の砂』第一部「我を愛する歌」巻頭の一連の短歌とともに読むと、不幸な失恋や、陰り、愁い、危うさも感じさせる歌です。
しかし、一首としての独立性が高く、この歌一首だけを読んでも鑑賞に堪えうる美しい恋歌です。
若き日が遠ざかろうとも、その時感じた心のいたみは薄れることがないといったような、幼い初恋を追憶するやさしい恋の歌です。
「砂山の砂に腹這ひ」といった動作は、子どもが遊びでするような動きです。砂浜で初恋の相手と遊んだ思い出の一コマが目に浮かぶようです。
初恋を思い出し、作者は今一人砂浜で海を眺めているのでしょうか。切ない孤独感が伝わってきます。
抒情的でロマンチックな雰囲気であること、読む人が自らの初恋の思い出を重ねて共感しやすい歌でもあることから、数ある啄木の歌の中でも人気のある歌のひとつです。
作者「石川啄木」を簡単にご紹介!
(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia)
石川啄木(いしかわ たくぼく)、啄木は雅号です。本名は石川一(いしかわ はじめ)です。岩手県出身で、明治時代に活躍した詩人であり、歌人でした。
生年は明治19年(1886年)で、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)に生まれ、生後すぐに渋民村(現盛岡市渋民)に転居、ここで育ちます。渋民村は、故郷として啄木が生涯焦がれ続けた土地でした。
文学者としては早熟で、10代のころに詩歌雑誌『明星』を愛読。歌人・与謝野晶子らに傾倒。地元の新聞『岩手日報』、『明星』といったメディアに作品が掲載されました。明治35年(1902年)文学で身を立てる決意をして上京しますが、2年後には結核の療養のために帰郷します。
1905年には、故郷渋民村を追われる羽目にあいます。啄木の父は村の寺の住職でしたが、金銭トラブルにより罷免されたのです。同じ年に、第一詩集『あこがれ』を自費出版したり、堀合節子と結婚しました。
病を抱えつつも、家族の暮らしを支えるため、啄木は教員をしたり、函館で新聞社に勤務するなどします。
明治41年(1908年)、啄木は2度目の上京を目指します。職場の人間関係のストレス、創作活動への病むことのない思いがあったといわれます。友人縁者の支援も受けつつ、新聞社勤務のかたわら、創作活動も続けました。
明治43年(1910年)、第一歌集『一握の砂』を刊行しました。
啄木の人生は、病や貧困、生活苦といった苦労に満ちていました。自らの境遇を嘆きつつ、社会の在り方にも疑問を持ち、社会主義者たちの思想にも傾倒していたともいわれます。しかし、啄木は自らの思想を世に問うことはできませんでした。結核が悪化し、明治45年(1912年)4月13日、石川啄木永眠。家族や友人の歌人若山牧水に看取られて、早すぎる生涯を閉じました。
啄木の母は、啄木に先立つことひと月前にやはり結核で死亡、残された妻も1年余りの地に死去。『一握の砂』刊行の年に生まれた長男は生後すぐに病没。長女は24歳で、啄木死後に生まれた次女は20歳を迎える前に亡くなりました。
薄倖の啄木ら家族は、友人であり義弟でもあった函館の宮崎郁雨により、函館に葬られています。
「石川啄木」のそのほかの作品
(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)
- やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
- 馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に
- 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
- 頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
- いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ
- たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
- はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る
- 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ
- ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
- かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川
- 石をもて追はるがごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
- ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな