山形県の農村に生まれ、短歌を詠みつつも精神科医としても大きな功績をあげた「斎藤茂吉」という人物がいます。
彼は正岡子規の流れを汲む、アララギ派の歌人として活躍しました。
今回は、斎藤茂吉の作品「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」をご紹介します。
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我が命なりけり
斎藤茂吉
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— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) October 6, 2018
本記事では、「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」の詳細を解説!
あかあかと 一本の道 とほりたり たまきはる我が 命なりけり
(読み方:あかあかと いっぽんのみち とおりたり たまきわるわが いのちなりけり)
作者と出典
この歌の作者は、「斎藤茂吉(さいとうもきち)」です。明治の終わりから昭和20年代後半に活躍した歌人です。
また、出典は大正10年(1921年)発刊、句集『あらたま』です。
処女歌集にして出世作となった『赤光』の次に出版された、作者にとって二番目の歌集です。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「夕日に照らされて、あかあかと一本の道がまっすぐに伸びている。この道は、私の歩むべき道であり、私のいのちそのものなのだ。」
となります。
この歌を斎藤茂吉が詠んだのは大正2年(1913年の)秋。初夏に母、そして夏に短歌の師を喪った後のことでした。
短歌の世界をどう生きていくのか、その覚悟を詠ったものだといわれています。
文法と語の解説
- 「あかあかと」
「あかあかと」は副詞です。また、擬態語(オノマトペ)でもあります。このことについては後の項で詳しく説明します。
- 「一本の道とほりたり」
「の」は格助詞です。
「とほりたり」は動詞「とほる」の連用形「とほり」+完了の助動詞「たり」です。
- 「たまきはる」
「たまきはる」は「命」にかかる枕詞です。(枕詞については、次項で詳しく説明します。)
「は」は係助詞です。
- 「我が命なりけり」
「が」は、格助詞です。
「なりけり」は断定の助動詞「なり」の連用形「なり」+詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、歌の中の大きな意味の切れ目のことです。
この歌は三句目「とほりたり」で一旦意味が切れていますので、「三句切れ」の歌です。
擬態語(オノマトペ)
擬態語とは、直接に音響とは関係のない状態を描写するのに用いられる言葉です。「ぐんぐんと成長する」の「ぐんぐんと」、「にっこりと笑う」の「にっこりと」などがそれにあたります。
この歌では「あかあかと」という擬態語が用いられています。
「あかあかと」は、漢字を使うと「明々と」とも「赤々と」とも書けます。夕日の光が「明々と」照り付けている道とも、光に照らされて「赤々と」して見える道ともとることができます。
枕詞
枕詞とは、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のことです。
「たまきはる」という枕詞は、『万葉集』の時代から使われてきた和歌の伝統的な言葉で、「命」「うち」「代」などの言葉にかかるとされます。
この歌では「たまきはる」という言葉が、「命」にかかる枕詞となっています。
斎藤茂吉は、著作『万葉秀歌』の中で以下のように述べています。
「「たまきはる」は命、内、代等にかかる枕詞であるが諸説があって未詳である。 仙覚・契沖・真淵らの霊極の説、即ち、「タマシヒノキハマル内の命」の意とする説は余り有力でないようだが、つまりは其処に落着くのではなかろうか。」
仙覚は鎌倉時代の天台僧、契沖は江戸時代中期の真言僧、真淵(賀茂真淵)は江戸時代中期の国学者で、3人とも『万葉集』の研究をした人物です。
斎藤茂吉は先達の研究者たちと同様に、「たまきはる」という枕詞を「たましい(霊魂)の極まるうちの命」ととらえていたことが分かります。「たましい」が「極まる」とは、観念的な言葉ですが、全身全霊の思いを込めるといったような力強さのある言葉です。
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」が詠まれた背景
この歌は、斎藤茂吉の第二歌集『あらたま』の中の、「一本道」という連作の中の一首です。大正2年(1913年)の秋の作品です。
斎藤茂吉は山形の生まれですが、15歳のころに東京の開業医斎藤紀一の養子となり、上京しています。
大正2年(1913年)には斎藤茂吉の実母・守谷いくが5月に亡くなり、7月にはアララギ派の中心人物であり、師である伊藤佐千夫が亡くなりました。次々と大切な存在を亡くし、喪失の哀しみに耐えなければなりませんでした。
この歌は、自身の師の死去とも無関係ではありません。斎藤茂吉はこの歌について以下のように述べています。
「恐らく先生は僕らの事を、まだ遠いまだ遠いとおもひながら死んで行かれたことだらう。秋の一日代々木の原を見わたすと、遠く一ぽんの道が見えてゐる。赤い太陽が団々として転がると、一ぽん道を照りつけた。僕らは彼の一ぽん道を歩まねばならぬ。」
これは、師・伊藤佐千夫亡き後、短歌の道をどう歩んでいくかについての覚悟を決めたということなのでしょう。
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」の鑑賞
「あかあかと一本の道・・・」は、自らの進むべき方向を見つけ、それに真正面から向きあおうとする、まっすぐで力強い歌です。
斎藤茂吉は、この歌を詠んだ大正2年(1913年)に『赤光』という処女歌集を出していますが、タイトルは阿弥陀経の一節からとったものだとのことです。歌集『赤光』の中で、赤は仏の救いや導く命の色として歌われています。
「あかあかと」という詠いだしにある通り、この歌を詠んでイメージする色は赤です。ここでも輝く命の色が赤で表現されています。
和歌の伝統的修辞である枕詞「たまきはる」を用いていますが、決して古臭い感じの歌ではありません。「我が命」という言葉を使うことによって、自己の内面を強く見つめ、自我を詠う近代の歌となりえています。
斎藤茂吉は、『万葉集』を好み、またよく研究もしていました。枕詞「たまきはる」といったような表現も、『万葉集』の影響といえますが、古い時代からの言葉を新しい感覚をもって使いこなしているところに、歌人斎藤茂吉の大きな特徴があります。
「たまきはる我が命なりけり」と力強く言い切る調子から、人生の行路を背筋を伸ばして見遥かす、一人の人間としての斎藤茂吉の姿が浮かんできます。
作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
斎藤茂吉は本業は精神科医ですが、明治の末期から昭和20年代後半まで活躍した歌人として知られています。実際に著作も多く、優れた歌人であり、古典文学の研究にもちからを注いでいました。
山形県南村山郡金瓶村で明治15年(1882年)に、父・守谷伝右衛門熊次郎、母・いくの間の三男として誕生しました。
茂吉の両親は、経済的な事情から十分な教育を施すことができないと考え、また、茂吉の才能を見抜いた村の寺の住職の口添えもあり、東京の開業医・斎藤紀一の養子として、15歳で上京しました。
斎藤茂吉は「旧制第一高校時代に正岡子規の遺歌集『竹の里歌』に傾倒、歌を詠み始めます。正岡子規の門弟の伊藤佐千夫に師事、雑誌『アララギ』で歌を発表するようになりました。その一方で、斎藤家の家業を継ぐため、東京帝国大学医科大学に進んで医師となり、斎藤紀一の娘の輝子と結婚しました。
第一歌集『赤光』を、正式に医師となる前後に世に出し、話題作となり、医師と歌人という二つの道を歩むことになります。
アララギ派の歌人として『赤光』以降、『あらたま』、『つゆじも』など、次々に歌集を発表、発表された歌は18000首近く、歌集は17にも及びます。それ以外にも随筆集や荒天文学研究論文を発表し、著書は数多くあります。
精神科医としても、欧州に留学したり、研究論文を書くなど研究熱心であり、養父が興した青山脳病院の院長としても大きな功績をあげました。
戦災によって焼け出され、戦時中と戦後しばらくの間、山形に疎開していました、昭和26年(1951年)には文化勲章を受章、翌年には『斎藤茂吉全集』が発行されました。
昭和28年(1953年)、70歳で病没しました。
「斎藤茂吉」のそのほかの作品
- ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
- 沈黙の われに見よとぞ 百房の 黒き葡萄に 雨ふりそそぐ
- みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目見んとぞ ただにいそげる
- 最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片
- 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
- のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり
- 最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも
- 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
- ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
- 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
- うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日