万葉の時代より人々の心を映し、日本の伝統文学として親しまれてきた短歌。
「五・七・五・七・七」の三十一文字で、歌人の繊細な心のうちをを歌い上げる叙情的な作品が数多くあります。
今回は、浪漫派の女流歌人として活躍した与謝野晶子の歌「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」をご紹介します。
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に
与謝野晶子 pic.twitter.com/7s87sBj5VB— sasayakibito (@sasayakibito) December 2, 2014
本記事では、「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」の詳細を解説!
金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に
(読み方:こんじきの ちいさきとりの かたちして いちょうちるなり ゆうひのおかに
作者と出典
この歌の作者は、「与謝野晶子(よさの あきこ)」です。
激しい恋情と若い女性の官能を大胆に歌い上げた第一歌集『みだれ髪』により、近代日本の文学界におきな衝撃を与えます。情熱的な歌風はしだいに沈静化していき、幻想的・浪漫的なものに転じていきました。
また、この歌の出典は、1905年に刊行された『恋衣』です。
この歌集は、与謝野晶子・山川登美子、増田雅子の合著詩歌集です。この中には、弟への想いを詠んだことで有名な【君死にたまふことなかれ】の歌も収録されています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「まるで金色の小さな鳥が舞うように銀杏の葉が散っています。夕日に照らされて輝く岡に。」
という意味になります。
黄色に色づいた銀杏の葉が、ひらひらと茜色に染まる岡に散っていくという情景を色鮮やかに表現しています。
まるで一枚の絵画を見ているかのような、美しい情景が広がります。晩秋という季節にぴったりの耽美的な歌といえるでしょう。
文法と語の解説
- 「ちひさき」
「小さし(ちひさし)」の連体形「ちひさき」です。
「小さい」「幼い」といった意味があります。
- 「銀杏」
葉は扇形をしており、美しく黄葉することから短歌にもよく詠まれてきました。「銀杏」の漢字表記では、種の実を指した場合に多く使われています。一般的には「植えると孫の代になって実がつく樹」の意味から「公孫樹」と表します。
「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。
この歌の場合は、「銀杏ちるなり」と終止形が用いられており、「。」を打つことができるので「四句切れ」となります。
比喩法
比喩とは、物事の説明や描写に、類似した他の物事を借りて表現することをいいます。印象を強めたり、感動を高めたりする効果があり、短歌では良く使われる技法です。
この歌では「黄葉した銀杏の葉」を「金色の小さな鳥」に喩えています。
「~のかたち」という言葉から比喩表現だとわかりますが、その後に「して」という動詞と結合し動作性を加えることで、まるで銀杏の葉が散っていくうちに小さな黄金の鳥へと姿を変え、あたりを飛び回っているかのように感じさせます。
倒置法
倒置法とは、語や文の順序を逆にし、意味や印象を強める表現方法です。短歌や俳句でもよく用いられる修辞技法のひとつです。
この歌でも本来の意味どおり文を構築すると・・・
「金色の ちひさき鳥の かたちして 夕日の岡に 銀杏ちるなり」
という語順になります。
しかし、「ちるなり」と言い切った後に「夕日の岡に」と付け加えたことで、味わい深い余韻が生まれています。
「金色の小鳥のようだ」とは一体何を詠んでいるのだろうと読者の興味をひきつけ、それは夕日の岡に銀杏の葉が散っていく姿だと、種明かしをしているようにも感じられます。
「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」が詠まれた背景
この歌は明治38年(1905年)の『明星』一月号で発表され、同年に刊行した山川登美子、茅野雅子との合同歌集『恋衣』に収録されています。
タイトルは著者三人が所属した東京新詩社の主催者であり、与謝野晶子の夫でもある与謝野鉄幹がつけたといわれています。
内容は、登美子「白百合」131首、雅子「みをつくし」114首、晶子「曙染」148首の歌が収められており、女性の地位が低かった時代において女性だけの歌集は珍しく、重版も続き、賛否の声も多かったようです。
明星派ではなかった歌人・若山牧水も自身の日記に、「『恋衣』を購入し寝るまで読んだ」と記しており、読者の関心の高さが伝わります。
さらにこの歌は同年の『明星』二月号で、評論家・生田長江が次のように述べています。
「女史が奔放限りなきファンタジアの力に驚嘆するばかりでなく、亦何となく女王の御前に導かれて行きでもするかのような、一種おごそかな感じが起こる」
浪漫主義歌人の晶子を女王と讃え、刊行当時から高く評価されていたことがうかがえます。
「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」の鑑賞
晩秋の黄昏時、夕日をうけてきらきらと輝くように舞い落ちる銀杏の葉。それを見て、まるで金色の小鳥のようだと感動する作者の心情が詠まれています。
豊かな想像力によって生み出されたこの比喩から、銀杏の葉が秋風に吹かれる様子でさえ、自らの意思をもって舞っているかのような躍動感が伝わるようです。
また、銀杏の葉や夕日といった溢れるばかりの色彩だけでなく、上の句に「金」・下の句に「銀」を置くことで、文字上でも華やかな印象を与えています。
そして、次第に「鳥に見立てられた小さな銀杏の葉」という近景から、「雄大な夕日の岡」という遠景へと描写を広げ、奥行きある歌の世界を創りだしています。
晶子は目の前の光景を動画のような映像感覚で捉え、何ともドラマチックなシーンで描いているのです。
自身の思いを力強く歌う歌風で知られている晶子ですが、自身を排除した徹底的な風景描写においても、芸術的な才能があるといえるでしょう。
作者「与謝野晶子」を簡単にご紹介!
(与謝野晶子 出典:Wikipedia)
与謝野晶子(1878年~1942年)は、明治から昭和にかけて活躍した女流歌人です。大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女として生まれ、本名は与謝野(旧姓は鳳)志ようといい、ペンネームを晶子としました。
幼少の頃から『源氏物語』など古典文学に親しみ、尾崎紅葉や樋口一葉など著名な文豪小説を読みふけりました。正岡子規の短歌に影響を受け、20歳の頃から店番を手伝いながら和歌を投稿しはじめます。
1900年に開かれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫関係になり、鉄幹が創立した文学雑誌『明星』で短歌を発表します。鉄幹の後を追い実家を飛び出した晶子は、鉄幹の編集により処女歌集『みだれ髪』を刊行します。
命がけの恋心や今このときの自身の美しさを誇らかな情熱を持って歌い上げた作品が多く、明治の歌壇に大きな衝撃を与えました。
晶子の著作で最も有名な歌に、1904年に発表した「君死にたまふことなかれ」があります。この歌は、日露戦争の真っ只中にあって、内容が国賊的であると激しい批判を受けました。
これに対し「誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と反論し、一歩も退くことはありませんでした。
5万首もの歌を残した晶子ですが、歌人だけでなく作歌・思想家など幅広い分野で精力的に活動しています。『源氏物語』初の現代語訳に取り組み、婦人運動の評論家として社会に貢献する大きな功績を残しました。
「与謝野晶子」のそのほかの作品
(与謝野晶子の生家跡 出典:Wikipedia)