歌人だけでなく、詩人や作詞家など多彩な才能で、日本の近代文学に多大な影響を与えた「北原白秋」。
象徴的手法で新鮮な感覚情緒を述べるなど、叙情的な短歌を数多く残しています。
今回は、北原白秋の作品の中から「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」という歌をご紹介します。
小説の合間に北原白秋の短歌をつまみ読み。「深々と人間笑う声すなり 谷一面の白百合の花」うーん妖しく美しい。10秒足らずで読めるのにしばらく色々考えられる。きっと百合の香りもたちこめているに違いない。人間の声とは男?女?たぶん女かな…どんな笑い声なんだろう?白秋恐るべし。
— あAやYA🥂 (@DDlQhLadayHOT2W) February 8, 2016
本記事では、「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」の詳細を解説!
深々と 人間笑ふ 声すなり 谷一面の 白百合の花
(読み方:ふかぶかと にんげんわらふ こえすなり たにいちめんの しらゆりのはな)
作者と出典
この歌の作者は、「北原白秋(きたはらはくしゅう)」です。
彼は明治時代末期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・歌人です。短歌だけでなく、童謡や民謡でも独自の境地を開拓し、数々の名作を世に送り出しました。
また、歌の出典は、1915年(大正4年)8月12日初版発行された第二歌集『雲母集(きららしゅう)』です。
この歌集には東京を離れ、神奈川県三浦三崎での生活で接した風物を、テーマに沿って表現した歌が集められています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌を現代語訳すると・・・
「深々と人間を笑う声が聞こえてくるようです。谷一面に咲き乱れる白百合の花から。」
という意味になります。
谷一面に広がる百合の花がわずかな風で一斉に揺れる様子は、あまりにも優雅ですが時に恐ろしさまで感じる迫力があります。作者はそんな風景を前に、「人間の小ささを笑っているかのようだ」と表現しています。
文法と語の解説
- 「深々と」
「ふかぶかと」と読みます。百合の花が風で上下に揺れる様を表しています。
- 「人間笑ふ」
「人間」と「笑ふ」の間には、目的格を表す助詞「を」が省略されており、「人間を笑う声」と訳します。
「笑ふ」には旧仮名遣いが用いられています。
- 「すなり」
「す」の終止形+伝聞・推定の助動詞「なり」の形式です。「(人間を笑う声)が聞こえてくるようだ」と解釈します。
- 「白百合の花」
この歌に詠まれる百合の花とは、「笹百合」のような山地や森林地帯に自生する品種を示しています。このことから、この歌は人里離れた山林での情景を詠んでいると解釈できます。
「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」の句切れと表現技法
句切れ
句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。
この歌の場合は三句目「声すなり」で、一旦歌の流れが句切ることができるので「三句切れ」となります。
三句目までで「深々と人間を笑う声」とは一体何を詠んでいるのだろうと読者の興味をひきつけ、それは谷一面に咲く白百合の花の群生だと、種明かしをしているような構成です。
体言止め
体言止めとは、文末を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。文を断ち切ることで言葉が強調され、「余韻・余情を持たせる」「リズム感をつける」効果があります。
この歌も名詞で結んでおり、体言止めが使われていることが分かります。
「白百合の花」という言葉に余韻を持たせ、高貴で清純な花の印象を強めています。
擬人法
擬人法とは植物や動物、自然などを、まるで人がしたことのように表す比喩表現の一種です。例えば、「花が笑う」「光が舞う」「風のささやき」などといったものがあります。
この歌も擬人法を用いていますが、実際に百合の笑い声が聞こえるわけではありません。
風に吹かれ花が揺れる音を人間が笑う声のように感じたと、作者の心情を投影していることが詠み取れます。
「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」が詠まれた背景
この歌の典拠である『雲母集』は、1913年5月から翌2月に至る約9ヶ月間の生活から生まれた556首の歌を収録しています。
当時、白秋は28~29歳の頃で、不倫の果てに姦通罪で投獄された傷心の時期でもありました。釈放された後、東京を追われる様に、神奈川県三浦三崎に移り住みます。
今までの人工的な都会の風景とは違い、どこまでも広がる太平洋やのどかな田園風景などに触れ、日々三崎や城ケ島の近辺を歩いては歌を詠んで過ごしました。こうした人生の苦悩や郊外での暮らしは詩風にも大きな影響を与え、次第に自然随順へと転換していきます。
第一歌集『桐の花』では、江戸情緒調の官能美を題材とし、近代的な鑑賞をきらびやかに歌い上げていましたが、『雲母集』ではこの作風から脱却することを意図していました。
この歌からも、象徴的な自然賛美が詠み取れ、官能詩人から自然詩人への転機が感じられます。
「深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花」の鑑賞
谷全体に反響する「クスクス」と笑う百合の声が聞こえてくるような作品です。この歌での「人間を笑う声」の主は、「白百合の花」だからこそ成立しているように感じます。
百合といえば切花をイメージされる方も多いかもしれませんが、古くから山林に自生しており、日本の歌にもよく詠まれてきた花です。山深い谷で人知れず咲き誇る百合の群生は、美しさだけでなく大自然の偉大さも伝わってきます。
また、明治時代からは西洋文化やキリスト教の影響を受け、「白百合」は神聖な花として扱われ、文学的シンボルとしても親しまれていました。
その高貴で清純な百合の花が吹かれ擦れあう音に、まるで「自分を含む人間を見て笑っている」と捉えているのです。
あざ笑うかのような皮肉を感じさせるのは、先述したとおり恋愛事件において世間から激しいバッシングを受けた経験によるものでしょう。
この歌には荒んだ心情こそがこの歌の主題だといえます。
作者「北原白秋」を簡単にご紹介!
(北原白秋 出典:Wikipedia)
北原白秋(1885~1942)は、江戸時代から続く海産物問屋の旧家に長男として生まれ、本名は北原隆吉(きたはらりゅうきち)といいました。
高等小学校入学後から日本の古典や小説を読みふけり、中学入学後からは「白秋」の号で雑誌『文庫』に短歌や詩を投稿しています。
その後中学を中退し、1904年に早稲田大学英文科へ入学。同級生だった若山牧水と中林蘇水らと交流を深めていきます。この頃の白秋は「射水」の号で知られており、彼ら三人は「早稲田の三水」と呼ばれていました。
しかし早稲田大学も中退し、明星派に傾倒していた白秋は与謝野鉄幹主催の新詩社に入ります。たちまち『明星』を代表する新進歌人となりました。
1907年、森鷗外宅の観潮楼歌会に出席し、アララギ派を代表する歌人とも知り会うようになります。特に斉藤茂吉とは交流を重ね、互いの詩作に大きな影響を与えました。
新詩社を脱退後、1908年に木下杢太郎らと「パンの会」を結成し、若手の芸術家を集め耽美主義運動を推進します。
1909年には異国情緒溢れる官能的な歌で新しい風をふきこんだ『邪宗門』を、19011年に故郷の風俗と幼少時代の哀歓を詠った『思ひ出』の二冊の詩集を出版、文壇の地位を確立し多方面に才能が認められました。
私生活では、既婚者であった松下俊子との恋愛事件や生家の破産など、人生の試練と困窮生活に苦しみますが、その後も『桐の花』『東京景物詩』など精力的に詩作に励みます。
華麗な作風から次第に自然賛美なものに転換し、短歌だけでなく童謡・民謡の分野でも才能を発揮していきました。白秋が生涯で残した童謡は1000編を超え、「あめふり」「からたちの花」「この道」などの歌は今なお人々に歌い継がれています。
晩年は眼の酷使と糖尿病・腎臓病の合併症で、ほとんどの視力を失いながらも創作意欲は衰えることはありませんでした。1942年病床でも執筆や編集を続けましたが、「ああ素晴らしい」の言葉を残し、57歳の生涯に幕を下ろしました。
「北原白秋」のそのほかの作品
(北原白秋生家 出典:Wikipedia)
- 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
- 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕
- しみじみと物のあはれを知るほどの少女となりし君とわかれぬ
- 草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
- 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
- 白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬に
- ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日
- 廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける
- 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
- ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋