【わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

昭和を代表する文化人「寺山修司」。

 

短歌、詩、戯曲など、様々なジャンルで才能を発揮し、テレビやラジオでも活躍しました。

 

今回は寺山修司氏の名歌「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」をご紹介します。

 


 

本記事では、「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」の詳細を解説!

 

わがシャツを 干さん高さの 向日葵は 明日ひらくべし 明日を信ぜん

(読み方:わがしゃつを ほさんたかさの ひまわりは あすひらくべし あすをしんぜん)

 

作者と出典

この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

寺山氏は昭和の文化を代表する人物です。昭和10年に生まれ、平成の声を聞くことなく50年足らずの人生を駆け抜けました。

 

また、この歌の出典は、昭和33(1958)に刊行された第一歌集『空には本』です。

 

「チェホフ祭」「祖国喪失」といった、寺山修司の初期の代表的な連作が収められている歌集です。この歌は、連作「浮浪児」の中の一首です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「私のシャツを干す高さくらいまでに伸びた向日葵は明日は花開くだろう。明日を信じよう。」

 

となります。

 

未来への希望をストレートにうたい上げています。

 

文法と語の解説

  • 「わがシャツを」

「わが」は「私の」という意味です。「を」は格助詞です。

 

  • 「干さん高さの」

「干さん」は動詞「干す」の未然形「干さ」+婉曲の助動詞「む(ん)」の連体形「ん」です。

「高さ」は形容詞「高し」の名詞化したものです。

 

  • 「向日葵は」

「向日葵」は「ひまわり」と読みます。草丈が高く、夏に大輪の花を咲かせます。太陽のある方向に花を向ける習性があります。

「は」は係助詞です。

 

  • 「明日開くべし」

「開くべし」は動詞「開く」の終始形+推量の助動詞「べし」の終止形です。「開くだろう」ということです。

 

  • 「明日を信ぜん」

「を」は格助詞です。

「信ぜん」は、動詞「信ず」の未然形「信ぜ」+意志の助動詞「む(ん)」です。「信じよう」という意味です。

 

「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」の句切れと表現技法

句切れ

短歌の中の大きな意味の切れ目を句切れといいます。

 

この歌は、四句「明日開くべし」で一旦意味が切れる「四句切れ」の歌です。

 

四句で、「開くだろう。」と強く言い切り、結句でも「信ぜん。」と言い切っています。歯切れよく、未来を信じる明るい気持ちを表現しています。

 

表現技法

この句で用いられている表現技法はとくにはありません。

 

しかし、四句と結句で「明日」という言葉を繰り返すことでリズムが生まれ、前向きな気持ちをより印象的に表現しています。

 

「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」が詠まれた背景

 

この歌は、昭和33(1958)刊行の、寺山修司の第一歌集『空には本』の中の連作「浮浪児」の一首です。

 

浮浪児とは、親や保護者がおらず、特定の住まいもなく、さまよい暮らす子供のことです。

 

戦争で孤児になって、浮浪児になる子どもも多くいました。昭和23(1948)、厚生省(現厚生労働省)の調査によると、当時アメリカの占領下にあった沖縄県を除く全国の孤児総数は約123500人いたとされています。

 

連作「浮浪児」は、陽だまりで眠る孤児、背比べをする姉弟などを描写した歌に続いて、未来を信じようという、浮浪児らへの応援歌のような歌が続きます。

 

連作「浮浪児」最後から2首目はこのような歌です。

 

「にんじんの種子吹きはこぶ風にして孤児らと夕陽とわれをつなげり」

現代語訳:にんじんの小さな種を吹き飛ばすような風が、孤児らと、夕陽と私をつなげている。) 

 

そして、最後が今回の歌です。

 

「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」

現代語訳:私のシャツを干す高さくらいまでに伸びた向日葵は明日は花開くだろう。明日を信じよう。)

 

孤児たちを見守る寺山修司の優しい視線を感じます。

 

また、向日葵の花は寺山修司が好んだ題材でもありました。彼が世に出るきっかけとなった連作、「チェホフ祭」の巻頭歌も向日葵の歌です。

 

「一粒のひまわりの種をまきしのみに荒野を我の処女地と呼びき」

現代語訳:一粒のひまわりの種をまいただけだが、この荒野を今日から私の処女地、手が付けられていなくてこれから開拓されていく大地だと思い定めよう。)

 

向日葵は、寺山修司の開拓精神であったり、前に進んでいく気持ちを象徴する花だったのです。

 

「わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん」の鑑賞

 

【わがシャツを干さん高さの・・・】は、ストレートでさわやかに、前向きに未来を信じる気持ちを詠っています。

 

向日葵は茎をすらりと高く伸ばして、力強く大きな花を咲かせます。生命力や若々しいエネルギーをたくさん感じさせてくれる花です。

 

シャツを干す高さと向日葵の高さを比べているところに、この歌の作者の独自の視点が感じられます。

 

シャツを干すわけですから、空は青く晴れているでしょう。

 

青い空、黄色い向日葵、干されたシャツは色彩イメージも鮮やかで、夏の陽ざしの強さや暑さ・風なども感じられる、イマジネーションが豊かな一首です。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司は昭和10年(1935年)、青森県生まれです。没年は昭和58年です。歌人、劇作家として文才を発揮し、演劇グループの主宰もつとめていました。

 

父・八郎は青森県警に勤務していましたが、出征し、寺山修司が9歳の頃戦死しました。母の親族を頼りつつ転々と住まいを変えながら成長しました。

 

昭和29年(1954年)には、早稲田大学教育学部国文学科に入学。この年雑誌『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の短歌に影響を受け、短歌に力を注ぐようになります。

 

そして、「チェホフ祭」と題された連作が『短歌研究』195411月号に特選として掲載されました。中城ふみ子や寺山修司の短歌は、既存の短歌を打ち壊すものとして、はじめは中央歌壇の批判や反発を受けましたが、現代短歌の始まりとして彼らの短歌は高く評価されています。

 

短歌によって寺山修司は文壇デビューを果たしましたが、その後、評論、詩、演劇、映像など、マルチに才能を発揮しました。

 

昭和40年代ころから「青少年のカリスマ」としての存在感を強め、昭和42(1967)には劇団「天井桟敷」を結成、主宰をつとめました。

 

昭和50年代半ばから肝硬変を患い、昭和58(1983)47歳で死去しました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)

 

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