【夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

戦後の歌壇に奔放多彩な才能で切り込んでいった前衛歌人・「寺山修司」。

 

短歌活動は10年余りと短いながらも、青春や故郷、祖国を歌い上げた作品は、今なお多くの人々に愛され続けています。

 

今回は彼が残した歌の中から「夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」をご紹介します。

 


本記事では、「夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」の詳細を解説!

 

夏蝶の 屍をひきてゆく 蟻一匹 どこまでゆけど わが影を出ず

(読み方:なつちょうの しをひきてゆく ありいっぴき どこまでゆけど わがかげをいず)

 

作者と出典

この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。

 

寺山氏は中学生の頃から詩作に励み、18歳にして歌壇デビューを飾っています。短歌だけでなく、評論、演劇、映画など幅広い分野で活躍し、比類なき表現者として名を残しました。

 

また、この歌の出典は1958年(昭和33年)6月に刊行された第一歌集『空には本』です。

 

青春性を高らかに詠んだ歌が集められており、初期の寺山作品を代表する歌集です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「夏の蝶の屍をひきずり運ぶ一匹の蟻は、どこまでいこうが自身の影を出ることができない」

 

という意味になります。

 

鮮やかな羽を持つ蝶の屍をひきずって、必死になって運ぼうとする小さな蟻。この一匹の蟻には作者の自我が投影されています。どこまで歩いても自身の影からは出られないことに、青春の苦悩を表現しています。

 

文法と語の解説

  • 「夏蝶」

夏の蝶のことで、アゲハチョウなど大型の蝶が多く見られます。俳句の世界では夏を表す季語でもあります。

 

「蝶」ときくと、モンシロチョウのような花の周りをふわふわと飛ぶ軽やかさを感じますが、「夏蝶」は低いところを重く飛ぶ姿がイメージされます。

 

  • 「屍」

読み方は「しかばね」ですが、この歌では文字数にあわせて「し」と読みます。

 

  • 「行けど」

動詞「行く」の已然形「行け」+逆説の確定条件を表す「ど」の形式で、「~けれども」と訳します。

 

  • 「出ず」

「出づ」+打ち消しの助動詞「ず」の形式で、「出ない」と訳します。

 

句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、意味や内容、調子の切れ目を指します。歌の中で、感動の中心を表す助動詞や助詞(かな、けり等)があるところ、句点「。」が入るところに注目すると句切れが見つかります。

 

しかしこの歌での句切りには、句切れなし・三句切れの二通りの解釈があります。

 

まず句切れなしとする場合、「蟻一匹」と「どこまでゆけど」の間には、助詞「は」が省略されていることに注目します。あえて「は」を入れなかったのは、韻律が崩れることに加え、抜いても歌意が読者に伝わるためだと推測されます。

 

そう考えると、意味や内容の切れ目とは考えがたいので、「句切れなし」の歌と捉えることができます。

 

一方で、「蟻一匹」でリズムが崩れてしまうことから、句切りのようにも感じられ「三句切れ」の可能性も挙げられます。三句切れとするならば、必死に蝶の屍を運ぶ一匹の蟻の姿がより強調されています。

 

字余り

字余りとは「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。

 

この歌でも三句目の「蟻一匹」が6文字になることから、字余りが用いられています。

 

「蟻一匹」の語のインパクトが強まり、自分自身を覆うような大きな蝶を運ぶ必死さが伝わります。

 

「夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」が詠まれた背景

 

この歌が収められている寺山の第一歌集『空には本』には、十代のみずみずしい感性で歌い上げた青春期の希望を思わせる作品が多く収められています。

 

しかし、この歌は「屍」や「影」といった暗いモチーフを扱っており、明るさを持つ他の作品群とは対極の印象を与えます。

 

挫折を思わせるような青春の苦悩を描いた背景には、寺山を苦しめた不治の病が影響しています。

 

昭和29年、18歳にして華々しい歌壇デビューを飾った寺山ですが、翌年19歳の頃にネフローゼと診断され、4年という長期の入院生活を送ります。早稲田大学も一年足らずで中退を余儀なくされるのです。

 

一時は生死をさまようほどの危篤状態に陥り、死と隣り合わせの生活を送る日々でした。現に8人部屋であった病室は、寺山をのぞきすべてが亡くなっているのです。

 

奇跡的に回復した寺山は、常に死を意識するようになり命を詠む歌が多くなりました。この歌にも病魔に苦しめられた経験が色濃く反映されています。

 

「夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」の鑑賞

 

この歌は小さな生物の生死に、作者の自我が投影することで、青春の苦悩を詠んだ歌です。

 

夏の暑い盛り、昨日までは飛んでいた夏の蝶も、今となっては屍となり土の上で蟻に引きずられています。その姿はまるで輝くような情熱に溢れていた、かつての自分を隠喩しているようです。

 

そして、小さな体で懸命に蝶を運ぼうとする一匹の蟻は、現在の寺山を表しているのでしょう。

 

せっかく羽を手に入れても蝶のように飛ぶことはできず、若き日の情熱が大きな影となり重くのしかかります。「どこまで行けどわが影を出ず」との強調により、もがき苦しんでいる様子が印象に残ります。

 

さらに蝶の屍を背負う蟻の姿は、生と死が表裏一体であることを象徴しており、死の存在からは逃れられないというように解釈できます。

 

鮮やかな羽を持つ蝶の屍と、必死に歩くも影を抜け出せない小さな蟻との対比によって、青年の苦悩を見事に表現した一首です。

 

作者「寺山修司」を簡単にご紹介!

(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia

 

寺山修司(1935年~1983年)は、「昭和の啄木」の異名で戦後の日本を駆け抜けた歌人です。

 

友人・京武久美の影響により中学生のころから詩を作りはじめ、早熟の才能を開花させます。その後1954年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の「乳房喪失」に感銘を受け、本格的に詩作に励むようなりました。

 

「第二回作品五十首募集」に応募した作品で、短歌研究編集長の中井英夫に見出され、「チェホフ祭」で新人賞を受賞します。

 

しかし翌年ネフローゼ症候群のため1922歳までの間入院生活を余儀なくされ、早稲田大学も中退し、生活保護での生活となります。入院中に中井英夫の尽力により、第一作品集『われに五月を』を出版しました。

 

1958年『空には本』、1962年『血と麦』、1965年『田園に死す』の三冊の歌集を出版しますが、寺山が精力的に短歌を作り続けた期間は短く、「チェホフ祭」でのデビューから10年あまりに過ぎませんでした。

 

短歌でどれほど惨めな自分を詠おうと、結局は「自己肯定」になってしまうと感じた寺山は歌に別れを告げ、映画監督、小説家、作詞家、脚本家など、様々な分野で表現活動を展開していきました。中でも演劇には情熱を傾け、「天井棧敷」を主宰し国際的にも大きな反響を呼びました。

 

創作活動を通じて時代に一石を投じ衝撃を与え続けましたが、敗血症により47歳の若さでこの世を去りました。

 

「寺山修司」のそのほかの作品

(寺山の墓 出典:Wikipedia)