【病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など

 

明治時代に彗星のように現れて詩歌を詠み、若くして病に倒れて歌人「石川啄木」。

 

彼の死後100年以上を経て、いまなお人気の高い歌人です。抒情的でロマンチックな短歌をたくさん詠みました。

 

今回は石川啄木の短歌の中から、「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」の詳細を解説!

 

病のごと 思郷のこころ 湧く日なり 目に青空の 煙かなしも

(読み方:やまいのごと しきょうのこころ わくひなり めにあおぞらの けむりかなしも)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。明治時代、26年という短い歳月を駆け抜けた詩人であり歌人です。

 

この歌の出典は石川啄木の第一歌集『一握の砂』です。(明治43(1910)12月に刊行)

 

この歌集は、「我を愛する歌」「煙一・二」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」の五部構成になっています。この歌は、「煙 一」の最初の歌です。

 

「煙」の部は、故郷と遠く離れて都にいる作者が、故郷を思う歌がまとめられています。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「まるで病気ででもあるかのように、故郷を思う気持ちが湧き上がってくる日であることだ。目に映る、青空にたなびく煙が悲しみを誘う。」

 

となります。

 

「思郷のこころ」というのは、故郷を恋しく思う気持ちということです。石川啄木の故郷は、渋民村、現在の岩手県盛岡市の一部です。

 

煙がひとところにたなびいていくように、自分の心も故郷にひかれているという気持ちを詠っています。

 

文法と語の解説

  • 「病のごと」

「の」連体修飾格の格助詞です。「ごと」は比況の助動詞「ごとし」の語幹です。

 

  • 「思郷のこころ」

思郷とは「 故郷を懐かしく思うこと」。「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「湧く日なり」

「湧く」は動詞「湧く」連体形です。「なり」は断定の助動詞です。

 

  • 「目に青空の」

「に」は場所を表す格助詞です。「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「煙かなしも」

「かなしも」は形容動詞「かなし」終止形+詠嘆の終助詞「も」です。

 

「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」の句切れと表現技法

句切れ

一首の中で、意味の上で大きく切れるところを句切れといいます。読むときにも、少し間を置く漢字と読むことになり、リズム上の切れ目でもあります。

 

句切れは、普通の文でいえば句点「。」のつくところにあたります。

 

この歌は、「湧く日なり。」で句点がつくので、「三句切れ」となります。

 

直喩

直喩法とは「たとえば」「ごとし」「ようだ」などの語を用い、一つの事物を直接に他の事物にたとえる技法です。

 

読み手に文章の意味が伝わりやすくなり、印象に残りやすい作品に仕上がります。

 

句中の「病のごと」は、「まるで病気のように」という意味の直喩表現です。

 

「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」が詠まれた背景

 

石川啄木にとって故郷とは、帰りたくても帰れない複雑な感情を抱かせる場所でした。

 

石川啄木は、故郷を出る決断を2度しています。

 

1度目は、明治35(1902) 盛岡尋常中学校を自主退学した直後で、文学で身を立てることにあこがれて上京したともいわれます。盛岡中学での学業不振、学生によるストライキ活動への参加、カンニングをして譴責処分を受けるなどした上での自主退学でもあったので、地元にいるよりも新天地を求めたい気持ちがあったのでしょう。

 

東京の生活もうまく回らず、病を得て結局明治36(1903)帰郷したのでした。

 

この時帰郷した時には、石川啄木を迎えてくれる人がいました。中学時代に知り合った堀合節子で、啄木は彼女と婚約します。そして、自費出版ではありますが、第一詩集「あこがれ」の出版も決まりました。

 

しかし、いいことばかりではありませんでした。明治38(1905)、渋谷村宝徳寺住職だった父が宗費を滞納し、罷免されてしまい、石川一家は寺を出なければならなくなります。石川啄木の肩には、両親も含めた家族の暮らしがのしかかってきたのです。代用教員をして働きつつ、父の復職を願いましたが、その望みも潰えてしまいました。

 

そして、明治40(1907)春、石川啄木は北海道に渡ることを決意します。2度目となる、故郷を出る決心です。

 

函館に渡り、小学校の代用教員や新聞社に職を得ますが、夏に函館で大規模火災が起こり、職場が焼けてしまいます。函館での生活をあきらめ、啄木は北海道の他のところで働いたりもしましたが、長続きはしませんでした。

 

明治41年(1908年)上京を決意し、故郷・渋民村を避けて船で東京を目指したと言われます。

 

このように石川啄木にとって、故郷とは帰りたくても帰れない場所であり、懐かしい思い出もあれば、挫折を味わった場所でもあったのです。

 

「病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも」の鑑賞

(盛岡市内に残る「啄木新婚の家」 出典:Wikipedia)

 

こちらの歌は、切なくも優しい望郷の歌です。

 

作者は、故郷を遠く離れた都会で空を見上げ、故郷のことを思っています。故郷のことが頭を離れず、「まるで病でもあるかのようだ」と自嘲しています。

 

青空にたなびく煙は、自由にどこにでも飛んでいけるものとして作者の目には映っています。都会の空も、遠くで故郷の空につながっています。一つの方向に煙がたなびいていくように、作者の心も故郷を恋い慕ってやまないのです。

 

作者・石川啄木にとって、故郷渋民村は優しい懐かしい思い出ばかりの土地ではありません。

 

しかし、生まれ育ち、思春期を過ごしたのは渋民村、文学に目覚めたのは渋民村での生活の中でのことでした。

 

石川啄木の根っこのような部分はずっと故郷とつながっていたのかもしれません。

 

 作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)。本名・石川一(いしかわ はじめ)は、明治19(1886年)岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)の寺の子として生まれました。

 

父は住職で、転任により、啄木が1歳の時に渋民村(現盛岡市渋民)に転居しました。啄木はこの渋谷村で育ちました。

 

早熟なこどもで、10代前半に詩歌雑誌『明星』に出会います。歌人の与謝野晶子らの歌に親しみました。『明星』誌上や、地元地方紙に短歌が掲載されるようになってきたころ、中学校を自主中退。明治35年(1902年)に上京します。あこがれの与謝野鉄幹・晶子夫妻に会いに行くなどしましたが、東京での暮らしを軌道に乗せることはできず、結核の発祥もあり、帰郷を余儀なくされます。

 

しかし数年後、父の金銭トラブルが発覚、実家のあった渋民村を一家で出る羽目になりました。啄木は、いくつかの職場を転々としながら働きます。そして、文学で身を立てることが諦めきれず、明治41(1908)再度上京します。

 

しかし、2度目の上京も楽なものではありませんでした。新聞社にも勤務しながら、短歌や、評論など、文筆活動にも精を出します。

 

石川啄木は、自らの文学、思想、哲学をもち、それらを追求すること、文章を通じて表現することに、すさまじいエネルギーを持っていました。しかし、貧困や、病気や、家族の不和など多くの苦労にいつも付きまとわれていました。

 

明治43(1910)には第一歌集『一握の砂』を刊行、その一年後あまりして、第二歌集の出版の話もある中、明治45年(1912年)413日、26歳にて病没しました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)