斎藤茂吉は「歌聖」とも称される歌人です。彼は精神科医をするかたわら多くの歌を作りました。
独創的な表現と言葉選びで作られた歌は現代の我々が読んでも新鮮で、また深い世界観が感じられます。
今回は斎藤茂吉の短歌「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」を紹介します。
小倉真理子「斎藤茂吉」を読了。正岡子規、伊藤左千夫に連なる写生・写実の視点と、精神科医としての観念や諦念が、寂寥感を深めている。「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」「かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」
— スエ (@suesue201) October 23, 2011
本記事では、「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」の詳細を解説!
かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
(読み方:かがやける ひとすじのみち はるけくて こうこうとかぜは ふきゆきにけり)
現代語訳と意味
この歌の現代語訳は・・・
「輝いている一筋の道は遥か遠くまで続いていて、こうこうと風が吹いているのだ。」
となります。
真っすぐに伸びる道をありのままに一枚の絵のように表現した歌ですが、初句の「かがやける」がその情景が眩しい程に明るいのだと読み手に伝えます。
風が吹いていますが寒さや辛さなどは感じられず、希望や、これからその道を歩もうとする力強さを思わせます。
作者と出典
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
この歌の作者は、「斎藤茂吉(さいとうもきち)」です。
斎藤茂吉は明治、大正、昭和を生きた精神科医で歌人です。東京で病院長を務めながら短歌を作り、故郷である山形の自然風景を詠んだ歌も多く残しています。また、彼は「アララギ派」を代表する歌人としても知られています。「アララギ派」は生活の中での感動を短歌にして、情景を写生のように見たまま表現する作風が特徴です。斎藤茂吉は写生の手法を取りつつ、「万葉集」の時代の古語を歌に織り交ぜながら近代人の感覚で感動を表現するといった新しい短歌を作り、当時の歌壇に大きな影響を与えました。
また、この歌の出典は「あらたま」です。
「あらたま」は斎藤茂吉の第二歌集で、母の死、師であった伊藤左千夫の死を経験した30代前半の彼の心情が綴られた歌が収められています。この歌は「あらたま」の中の「一本道」という連作の中の一首です。「あらたま」とは漢字で「璞」「荒玉」と書き、掘り出したままでまだ磨かれていない玉、原石を表します。森鴎外の小説に「璞」という言葉が使われており、森鴎外が好きだった茂吉はそこから取って歌集の名前にしたようです。
文法と語の解説
- かがやける
輝いている、という意味で、動詞「輝く」の連用形と助動詞「けり」の連体形からなる言葉です。「輝く」は眩しいほどに光っている様子を言います。
- ひとすぢの途
一筋の道、一本の道といった意味です。「途」は「みち」と読み「道」と同じ意味で、長く平らに伸びた道路を表す言葉です。
- 遙けくて
遥か遠くで、といった意味です。「遙(はる)けく」は形容詞「遙けし」の連用形で「て」は接続助詞です。「遙けし」は空間的に、または時間的に非常に遠いことを表します。
- かうかうと風は
「かうかう」は「こうこう」と読みます。この歌の「こうこう」は風が「ごうごう」と吹いている音を表します。また「こうこう」には明るく光る様子を意味する「煌々、皓々(共に「こうこう」)」という字も当てることができ、眩しさの表現だとも読みとれます。
- 吹きゆきにけり
吹いているのだ、といった意味です。風が起こることを表す「吹く」、向こうの方へ移動するという意味の「ゆく」、詠嘆を表す助動詞「けり」からなる言葉です。
「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」の句切れと表現方法
句切れ
この歌は「句切れなし」です。歌全体が一つの文章としてまとまっており、途中で文が区切れていません。
オノマトペ(擬音語)
オノマトペとは自然にある音や物事の状態などを文字で表現したもので、擬音語や擬態語などがこれに当たります。「ザーザー」や「ピカピカ」などがあり、オノマトペによって読み手、聞き手は情景を想像しやすくなります。
この歌では「かうかう(こうこう)」という擬音語が用いられています。
「かうかう」には「ごうごう」という風の音を表す擬音と、「煌々(こうこう)」というキラキラ輝く明るい様を表す擬音の両方の意味があります。
今回の歌は、前者の擬音語「ごうごう」の【風が吹く音】の意味です。
「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」が詠まれた背景
この歌は「一本道」という題で複数詠まれた短歌の一つです。「一本道」には他にこんな歌があります。
「あかあかと 一本の道 とほりたり たまきはる我が 命なりけり」
茂吉はこの歌を「実際に日に照らされている一本の道を見て作った」と後に語っています。今回紹介している「かがやけるひとすぢの途」もその時に見た道から連想して作られたものと考えられます。
「一本道」の連作が作られる少し前に、茂吉が短歌の師として尊敬し、短歌結社「アララギ」の中心人物であった伊藤左千夫が急逝しています。茂吉の心には悲しみと、今後の歌人として自分がどう生きるべきかなどの思いがあったことでしょう。
茂吉は真っすぐに伸びる道という光景を見て、今後の自分が歩むべき人生を思ったのではないでしょうか。そしてその道を歩んでいくのだと決意をこめて、この歌を詠んだのかもしれません。
「かがやけるひとすぢの途遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」の鑑賞
「かがやけるひとすぢの途・・・」は、曲がらない真っ直ぐな道が彼方まで通っている光景が頭に浮かぶ歌です。
その道の先は「遙けくて」、遠く遠く終着点を見ることはできません。そこに「かうかうと」風が吹いています。風はゴウゴウと吹いているようで、暖かく穏やかな道ではない様子です。
しかし初句で「かがやける」とあるように、その道は輝いています。「ひとすぢの途」は行く者を惑わせるような分岐もありません。風は吹いていますが、その道は光に溢れ神聖さも感じられます。そう思うと吹きすさぶ風すらも「煌々と」光っているように感じられます。
この歌に描かれた道は作者・斎藤茂吉の歌人としての今後、または精神科医としての今後を象徴しているのではないでしょうか。「途」は「途中」という熟語で使われるように、目的地へ向かって進む道を表す漢字です。斎藤茂吉は「自分は道半ばだが、進むべき道は決まっている。前途には光があるのだ」と思っていたのかもしれません。
この歌からは、道は長く風も強いけれども歩き続けようという強い思いを感じさせます。
作者「斎藤茂吉」を簡単にご紹介!
(1952年頃の斎藤茂吉 出典:Wikipedia)
斎藤茂吉は本業は精神科医ですが、明治の末期から昭和20年代後半まで活躍した歌人として知られています。実際に著作も多く、優れた歌人であり、古典文学の研究にもちからを注いでいました。
山形県南村山郡金瓶村で明治15年(1882年)に、父・守谷伝右衛門熊次郎、母・いくの間の三男として誕生しました。
茂吉の両親は、経済的な事情から十分な教育を施すことができないと考え、また、茂吉の才能を見抜いた村の寺の住職の口添えもあり、東京の開業医・斎藤紀一の養子として、15歳で上京しました。
斎藤茂吉は「旧制第一高校時代に正岡子規の遺歌集『竹の里歌』に傾倒、歌を詠み始めます。正岡子規の門弟の伊藤佐千夫に師事、雑誌『アララギ』で歌を発表するようになりました。その一方で、斎藤家の家業を継ぐため、東京帝国大学医科大学に進んで医師となり、斎藤紀一の娘の輝子と結婚しました。
第一歌集『赤光』を、正式に医師となる前後に世に出し、話題作となり、医師と歌人という二つの道を歩むことになります。
アララギ派の歌人として『赤光』以降、『あらたま』、『つゆじも』など、次々に歌集を発表、発表された歌は18000首近く、歌集は17にも及びます。それ以外にも随筆集や荒天文学研究論文を発表し、著書は数多くあります。
精神科医としても、欧州に留学したり、研究論文を書くなど研究熱心であり、養父が興した青山脳病院の院長としても大きな功績をあげました。
戦災によって焼け出され、戦時中と戦後しばらくの間、山形に疎開していました、昭和26年(1951年)には文化勲章を受章、翌年には『斎藤茂吉全集』が発行されました。
昭和28年(1953年)、70歳で病没しました。
「斎藤茂吉」のそのほかの作品
- ただひとつ 惜しみて置きし 白桃の ゆたけきを吾は 食ひをはりけり
- 沈黙の われに見よとぞ 百房の 黒き葡萄に 雨ふりそそぐ
- みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目見んとぞ ただにいそげる
- 最上川の 上空にして 残れるは いまだうつくしき 虹の断片
- 死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる
- のど赤き 玄鳥ふたつ 屋梁にゐて 足乳根の母は 死にたまふなり
- 最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも
- 猫の舌の うすらに紅き 手ざはりの この悲しさを 知りそめにけり
- ものの行 とどまらめやも 山峡の 杉のたいぼくの 寒さのひびき
- 信濃路は あかつきのみち 車前草も 黄色になりて 霜がれにけり
- うつせみの 吾が居たりけり 雪つもる あがたのまほら 冬のはての日