【みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど

 

胸に迫る望郷の歌を数多く詠んだ歌人「石川啄木」。

 

啄木は抒情的な美しい短歌を短い生涯で数多く読み、多くのファンの心を魅了し続けています。

 

今回はそんな明治時代の有名歌人「石川啄木」の短歌の中から「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」の詳細を解説!

 

みぞれ降る 石狩の野の 汽車に読みし ツルゲエネフの 物語かな

(読み方:みぞれふる いしかりののの きしゃによみし ツルゲエネフの ものがたりかな)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。啄木は明治期に活躍した岩手県出身の歌人です。

 

また、この歌の出典は、石川啄木の第一歌集『一握の砂』です。明治43(1910)12月に刊行された歌集です。

 

現代語訳と意味 (解釈)

この歌を現代語訳すると・・・

 

「みぞれが降る寒い日に石狩平野を走る汽車の中で読んだツルゲーネフの本に感銘した」

 

という意味になります。

 

困窮の中で一家離散した啄木は、ひとり小樽から釧路へと旅立ちました。車窓から眺める荒々しく物寂しい光景は啄木の心のうちを表しているかのようです。

 

文法と語の解説

  • 「石狩の野」

「石狩の野」とは、石狩平野のことです。石狩平野は、北海道中西部、石狩川中・下流部に広がる平野です。札幌はじめ、江別、千歳、岩見沢、滝川、深川などの諸都市が立地し、北海道の産業・文化の中心地になっています。

 

  • 「読みし」

「読みし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形です。

 

  • 「ツルゲエネフ」

「ツルゲエネフ」とは、19世紀ロシアの小説家「ツルゲーネフ」のことです。農奴制や女性の自立などの社会問題を優れた詩人的感性でとらえ、多くの長編を残しました。代表作『猟人日記』『初恋』『父と子』など。

 

  • 「物語かな」

「物語かな」の「かな」は、詠嘆・感動の終助詞「かな」です。

 

「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことで、読むときもここで間をとると良いとされています。

 

この句に句切れはありませんので、「句切れなし」です。

 

字余り

字余りとは、「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。

 

この歌では三句目の「汽車に読みし(6)が字余りとなっています。

 

「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」が詠まれた背景

 

この歌は、啄木の心の内の暗くさみしい気持ちを表現した、北海道の冬特有の旅愁を感じさせる歌です。

 

この歌を詠んだときの啄木の置かれていた境遇については、啄木自身の日記、研究者による後年の研究によって明らかになっています。

 

歌集『一握の砂』に収められた連続する4は、小樽にいられなくなり釧路に向かう明治41年(1908年)1月19日の歌だと言われています。

 

明治40(1907)、小樽の新聞社・小樽日報社で働いていた啄木は、編集長・岩泉江東のことが気に食わず、水面下で排斥運動を始動し、編集長を辞めさせることに成功します。そのやり口の汚さから、事務長・小林寅吉に睨まれた啄木は、1212日、小林から殴打されます。これに衝撃を受けた啄木は、無断欠勤の末、退職してしまいます。

 

しかし、新しい編集長と社長の計らいにより、釧路新聞社に就職が決まります。明治41(1908)119日、家族と別れて小樽を発ち、121日、釧路に到着します。

 

以下の4首が、119日の歌だと言われている歌です。

 

「子を負いて雪の吹き入る停車場にわれ見送りし妻の眉かな」

(解釈:雪の小樽駅で夫を見送る妻の哀愁を詠んだ歌)

「敵として憎みし友とやや長く手をば握りきわかれといふに」

(解釈:啄木を殴打した小林寅吉事務局長について詠んだ歌)

「ゆるぎ出づる汽車の窓より人先に顔を引きしも負けざらむため」

(解釈:釧路に落ちていく自分自身の心境を詠んだ歌)

「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」

(解釈:家族と離れ、ひとり釧路に向かわなければならないさみしさ、荒涼とした心地を詠んだ歌)

 

歌の収録順から考えて、「みぞれ降る」の歌は、札幌から釧路に向かう途中で詠まれた歌だろうと推測されます。

 

小樽から札幌までは、啄木は小樽日報社と釧路新聞社の社長・白石氏と同行していました。白石氏は札幌で下車し、啄木はそこからの長い時間、ひとり汽車から車窓の風景を眺めていたのです。

 

補足

一点、疑問が残るのは、この日119日は大雪の日で、みぞれは降っていなかったという点です。

 

ただし、明治40(1907) 1212日、啄木は汽車で札幌から小樽まで移動しており (石狩平野を汽車で移動)、その日はみぞれが降っていたのだそうです。啄木が小樽を出る原因となった、小林事務長による殴打事件は、啄木が小樽に到着した直後に起きました。

 

啄木が目で見たものを忠実に歌に詠んだのだとすると、「みぞれ降る」の歌は、明治401212日に詠んだものかもしれません。

 

後日『一握の砂』を編集するときに、本人が、小樽から釧路に向かう心境を良く表している歌として、この歌を「小樽の歌」という位置に配置したと解釈することができます。

 

「みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな」の鑑賞

 

この歌に登場するツルゲエネフ(ツルゲーネフ) は、19世紀ロシアの小説家です。

 

貧しい農奴の生活を描いた『猟人日記』(1852)は、農奴解放に大きな役割を果たしたと言われています。『父と子』(1862)は、19世紀のロシア文学の最高傑作のひとつに挙げられています。

 

このことを踏まえて「みぞれ降る」の歌を鑑賞してみましょう。

 

この歌の優れた点は、作者が複数の視点で石狩の野をとらえているという点です。

 

実際の作者は、汽車の中でツルゲエネフの本を読んでいます。しかし、作者の視点は、外部から、みぞれ降る野をひた走る汽車をみごとにとらえています。

 

さらに、「ツルゲエネフの物語」という言葉から、読み手はここには描かれていないロシアの荒涼とした冬景色を想像することさえできるのです。

 

また、この歌では、感情を表す言葉が一切使われていませんが、読み手に憂いを帯びた叙情を感じさせる歌となっています。

 

「みぞれ降る」と「ツルゲエネフ」という言葉は、ロシアを彷彿とさせる石狩平野をひとり行く旅愁を感じさせます。

 

さらに、歌の中に最果ての地に向かう旅のわびしさが込められており、雪原の中を落ちていく哀感を詠い上げた一句となっています。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、本名を石川一(いしかわ はじめ)と言います。

 

啄木は、明治19(1886年)、岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現盛岡市日戸)に生まれました。住職の父の転任に伴い、1歳の時に渋民村(現盛岡市渋民)に転居します。

 

早熟で利発なこどもといわれ、中学生のころ詩歌雑誌『明星』に出会います。歌人の与謝野晶子らの歌に親しみました。

 

『明星』誌上や地元地方紙に短歌が掲載されるようになり、文学にあこがれて、明治35年(1902年)上京します。しかし、2年後には病気のために帰郷を余儀なくされます。

 

1905年には、第一詩集『あこがれ』を自費出版、その後長年恋愛関係にあった堀合節子と結婚しました。

 

その一方で、寺の住職を務める父の金銭に関わるトラブルのため、実家のあった渋民村を追放されるように出なければなりませんでした。

 

石川啄木の人生は病や貧困、家族の悩みとの戦いでした。結核という病を抱えつつも、啄木は一家の生計を立てるために働かなくてはなりませんでした。盛岡で教員をしたり、北海道で新聞社に勤めるなど、啄木も必死で働きました。

 

明治41(1908)上京します。職場での人間関係の問題や、創作活動への意欲があったといわれています。

 

明治43(1910)には第一歌集『一握の砂』を刊行しました。

 

第二歌集の話も出ている中、明治45年(1912年)413日、石川啄木は26歳のあまりにも短い生涯を終えました。

 

啄木の死後ほどなく、第二歌集『悲しき玩具』が刊行されました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)