【ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

明治時代に彗星のように現れて詩歌を詠み、若くして病に倒れて歌人「石川啄木」。

 

彼の死後100年以上を経て、いまなお人気の高い歌人です。抒情的でロマンチックな短歌をたくさん詠みました。

 

今回はそんな石川啄木の短歌の中から、「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」という歌をご紹介します。

 

 

本記事では、「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の詳細を解説!

Mt. Iwate and Morioka.jpg

(岩手山 出典:Wikipedia

 

ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな

(読み方:ふるさとの やまにむかいて いふことなし ふるさとのやまは ありがたきかな)

 

作者と出典

この歌の作者は「石川啄木(いしかわたくぼく)」です。

 

明治時代の歌人で、『一握の砂』や『悲しき玩具』といった歌集が発表されています。

 

この歌の出典は明治43(1910)12月刊行、石川啄木の第一歌集『一握の砂』(第二部:「煙 二」)です。

 

現代語訳と意味(解釈)

この歌の現代語訳は・・・

 

「ふるさとの山に向かい合ってみると、もはや言うことは何もない。ふるさとの山はありがたいものであるなあ。」

 

となります。

 

この歌は、故郷に帰ってきて、しみじみと故郷の良さを実感しているという設定の歌です。

 

(※実際には作者は帰郷していません。この歌は、帰郷してふるさとの山に向かい合った自分を想像して詠んだ歌になります)

 

文法と語の解説

  • 「ふるさとの」

「の」は連体修飾格の格助詞です。

 

  • 「山に向ひて」

「に」は対象を表す格助詞です。

「向ひて」は動詞「向ふ」連用形「向ひ」+接続助詞「て」です。

 

  • 「言ふことなし」

「言ふ」は動詞「言ふ」の連体形です。「なし」は形容詞です。

 

  • 「ふるさとの山は」

「の」は連体修飾格の格助詞。「は」は主格の格助詞です。

 

  • 「ありがたきかな」

「ありがたきかな」は形容詞「ありがたし」の連体形「ありがたき」+詠嘆の終助詞「かな」です。

 

「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の句切れと表現技法

句切れ

句切れとは、一首の中の意味上の切れ目のことです。普通の文でいえば、句点「。」のつくところで切れます。

 

この歌は、「言ふことなし。」の三句目のところで句点がつき句切れますので、「三句切れ」の歌です。

 

字余り

短歌は、五・七・五・七・七の音数で作っていくことが基本原則です。しかし、あえて規程の音数を外して詠むこともあります。

 

この歌は以下のような5・7・6・8・7の音律になっています。

 

ふるさとの(5) やまにむかいて(7) いふことなし(6) ふるさとのやまは(8) ありがたきかな(7)

 

ご覧の通り、三句と四句でそれぞれ音数が1つずつ多いです。このようなものを字余りといいます。

 

歌のリズムをあえて崩すことによって、ふるさとの山に感じる安心感、懐かしさ、しみじみとした喜びをより印象的に表現しています。

 

「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」が詠まれた背景


(盛岡市内に残る「啄木新婚の家」 出典:Wikipedia

 

この歌は、明治43(1910)12月刊行、石川啄木の第一歌集『一握の砂』の第二部「煙 二」の最後に収められています。

 

「煙」の部は、ストーリー展開するような歌の並びになっていることが特徴です。

 

「煙 一」のはじめの方の歌で、帰りたくても帰れない故郷があることを、読者に示しています。これらに続いて、ふるさとの思春期の日々、学生生活を回想した歌が続きます。

 

「煙 二」では、自分は都会にいながら、遠くの故郷の様子を思いやる歌が収められています。

 

懐かしい故郷のことを想う美しい歌もありますが、村人の思い出を詠った陰鬱な歌もたくさん出てきます。石川啄木は故郷に対して非常に複雑で屈折した思いをいだいていました。

 

その後、歌の内容が一転。帰郷する自分、その時の故郷を想像して詠まれた歌が続きます。変わり果てた故郷、変わり果てた自分を嘆きます。

 

そして、最後に出てくるのがこの歌「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」です。

 

屈折した感情、複雑な思いをいだきつつも、ふるさとの山には懐かしさとありがたさを禁じ得ない、しみじみとした人間の情を詠っています。

 

「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の鑑賞

 

この歌は、望郷の思い・ふるさとを慕う気持ちをしみじみと分かりやすい言葉でうたっています。

 

この歌は現在も多くの人の共感を得る名歌として親しまれています。

 

石川啄木が慕ってやまない「ふるさとの山」は、岩手県の最高峰、岩手山であると言われています。同じく啄木が愛した北上川の岸辺からもその美しい山容を望むことができます。

 

人間形成の基礎となる子ども時代、思春期の時代を過ごした土地というものは、どんな人にとっても格別なものでしょう。

 

「自分も含めて、人の心や営みはどんどん変わっていく。しかし、ふるさとの自然は悠然と変わらず、自らを拒むことはない。」そういった思いもこの歌には込められています。

 

「ふるさとの山」は、いつもそこにあり、見守ってくれる存在・自らを育ててくれた存在として作者の心の中にあります。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治時代の詩人・歌人です。啄木は雅号で、本名を一(いしかわ はじめ)と言いました。

 

明治19(1886年)、岩手県に生まれ、亡くなったのは明治45年(1912年)。わずか26歳の生涯でした。

 

岩手県の渋民村(現盛岡市渋民)で育ち、盛岡中学に在学中から、詩歌雑誌『明星』に耽溺、詩歌の創作にも励みました。『明星』誌上や、地元地方紙『岩手日報』にも短歌が掲載されるようになります。明治35年(1902年)文学を志し、16歳で上京、しかし2年後には結核のために帰郷しました。

 

1905年には、第一詩集『あこがれ』を自費出版。しかし、父の金銭に関わるトラブルのため、実家のあった渋民村を出るという憂き目にあいました。

 

啄木は一家の生計を立てるために、盛岡で教員をしたり、北海道で新聞社に勤めるなどしました。職場での人間関係の問題や、創作活動への意欲から、明治41(1908)上京します。

 

東京での暮らしも、決して楽ではなく、借金を重ね、苦労して働きながら文筆活動を続け、明治43(1910)には第一歌集『一握の砂』を刊行しました。

 

しかし、結核が悪化、明治45年(1912年)413日、石川啄木は妻や父、友人であり歌人の若山牧水らに見守られて26歳のあまりにも短い生涯を終えました。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)