詩人であり、作詞家としての才能もあわせもった歌人「北原白秋」。
ふるさと、福岡県の柳川を愛し続けた人物でもありました。
今回は望郷の思いをうたい上げた北原白秋の名歌「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」をご紹介します。
[11月2日] #白秋忌
詩人・北原白秋の1942年の忌日。明治から昭和初期にかけて活躍した北原白秋は日本を代表する詩人で歌人の一人。詩集「邪宗門」や、数多くの童謡の作詞を発表した。福岡県柳川市に記念館がある。🎵この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる〜 pic.twitter.com/6CgqDz0mRe— 銀☆彡2017 (春は何処) (@nanairotonbo) November 1, 2016
本記事では、「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」の詳細を解説!
帰らなむ 筑紫母国 早や待つと 今呼ぶ声の 雲にこだます
(読み方:かえらなむ つくしおやぐに はやまつと いまよぶこえの くもにこだます)
作者と出典
この歌の作者は、「北原白秋(きたはらはくしゅう)」です。明治時代末期から、大正時代、そして昭和10年代に活躍した歌人・詩人です。
また、この歌の出典は、昭和61年(1986年)発刊、『白秋全集 第12巻』です。
昭和54年(1979年)~昭和55年(1980年)にかけて刊行された『昭和万葉集』にも収録されています。
現代語訳と意味(解釈)
この歌の現代語訳は・・・
「帰ろうではないか。筑紫の国、私の母国へ。もう待っているよと、今も故郷が私を呼ぶ声が雲にこだまして響いている。」
となります。
望郷の思いを、力強い言葉でストレートに歌っています。
文法と語の解説
- 「帰らなむ」
「帰らなむ」は動詞「帰る」未然形「帰ら」+強い意志を表す助動詞「なむ」の終始形です。
- 「筑紫母国」
「筑紫」は九州の古称です。
「母国」はふるさとのこと。「おやぐに」と読みます。
- 「早や待つと」
「早や」は副詞です。「もう」という意味です。
「待つ」は動詞「待つ」の終止形。「と」は格助詞です。
- 「今呼ぶ声の」
「今」は副詞です。
「呼ぶ」は動詞「呼ぶ」の連体形です。「の」は格助詞です。
- 「雲にこだます」
「に」は格助詞です。
「こだます」は、動詞「こだます」の終止形です。「こだまのように響いている」という意味です。
「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」の句切れと表現技法
句切れ
短歌の中の大きな意味の切れ目を句切れといいます。
この歌は、初句「帰らなむ」で一旦意味が切れる「初句切れ」の歌です。
初句で「帰ろうではないか」と強く気持ちを打ち出した、望郷の思いあふれる歌となっています。
擬人法
擬人法とは、人ではないものを人の動きなどにたとえた比喩表現のひとつです。
この歌では、「筑紫母国早や待つと今呼ぶ声」とありますが、これは母国、ふるさとである筑紫が待っているよと作者に呼び掛ける声という意味で、擬人法で表現されています。
望郷の念を抱く作者の心と、ふるさと筑紫がおたがい呼び掛け合っているような効果を生んでいます。
「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」が詠まれた背景
北原白秋にとって、故郷は懐かしいものでした。
歌集『夢殿』(昭和14年 1939年刊行)に、昭和3年に帰郷した時のことを詠んだ連作「郷土飛翔吟」があります。ここでは連作のいくつかの歌をご紹介します。
「母(おや)の国筑紫この土我が踏むと帰るたちまち早や童なり」
(現代語訳:わが祖国、筑紫の地を踏むと、私の心はたちまちにして童心に帰ってしまう。)
「我が帰る心矢のごとありけらし早や着きたりと笑ひて泣かゆ」
(現代語訳:私の望郷の思いは、矢のように一目散に故郷のことを思っているのだ。故郷にもう着いたのだ、帰って来たのだと笑い、涙している。)
北原白秋はふるさとを心から慕い、懐かしんでいたのでした。
「帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます」の鑑賞
「帰らなむ筑紫母国・・・」は、望郷の思いをストレートに、力強く詠んだ一首です。
このような思いは、多くの人の共感を得るところであり、特に九州地方出身の人々からは深い共感をもって受け止められています。
「帰らなむ」の初句で切れる歌であり、強く激しい望郷の念、ふるさとへの思慕を感じます。
そして、帰りたいと思う作者の心と、待っているよと呼び掛ける「母国」の声が呼応しあって、強い印象を残します。
「母国」の声は「雲にこだます(雲にこだまして響いている)」と詠まれています。心の深いところまで、大きく響いているのでしょう。それだけ、ふるさとを慕う気持ちが強く深いということです。
作者「北原白秋」を簡単にご紹介!
(北原白秋 出典:Wikipedia)
北原 白秋(きたはら はくしゅう)は、詩人、歌人、作詞家です。白秋は雅号で、本名は隆吉(りゅうきち)といいます。明治18年(1885年)生まれで、現在の福岡県柳川市で育ちました。
白秋は、10代半ばにして、雑誌『明星』の抒情的な詩や短歌を読みふけり、明治37年(1904年)早稲田大学英文科予科に入学します。早稲田大学で歌人の若山牧水、中林蘇水らと親交をむすび、白秋は射水という号も使っていたことから、牧水、蘇水、射水の三人で「早稲田の三水」とも呼ばれました。明治39年(1906年)雑誌『明星』を発行していた新詩社に参加しました。
明治41年(1908年)には新詩社を脱退、パンの会の中心人物となります。パンとは、ギリシア神話の芸術の神のことで、パンの会では、詩人、歌人、画家など若手の芸術家が集い懇談しました。パンの会では、東京をパリに見立てて語り合ったりもしており、白秋のこのころの作品も西洋的な趣味にあふれています。
明治42年(1909年)には雑誌「スバル」の創刊に参加。処女詩集『邪宗門』は官能・耽美な作風で文壇に新風をもたらし、大正2年(1913年)の処女歌集『桐の花』は、センチメンタルでロマンチックな短歌で話題となりました。
私生活においては、裕福だった福岡の実家が破産したり、人妻とスキャンダルを起こしたり、結婚と離婚を繰り返すなど、穏やかな時ばかりではありませんでした。
詩、短歌、歌の作詞など、とにかく多彩な才能の持ち主で、数多くの著作があります。
糖尿病、腎臓病に悩まされ、晩年は視力も失いましたが創作意欲は衰えなかったといいます。昭和17年(1942年)57歳で逝去しました。
「北原白秋」のそのほかの作品
(北原白秋生家 出典:Wikipedia)
- 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
- 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕
- しみじみと物のあはれを知るほどの少女となりし君とわかれぬ
- 草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
- 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
- 白き犬水に飛び入るうつくしさ鳥鳴く鳥鳴く春の川瀬に
- 深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花
- 石崖に子ども七人腰かけて河豚を釣り居り夕焼小焼
- ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日
- 廃れたる園に踏み入りたんぽぽの白きを踏めば春たけにける
- 手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
- ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋