【新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞文など

 

短歌は、作者が思ったことや感じたことを5・7・5・7・7の31音で表現する定型詩です。

 

「みそひともじ」とも呼ばれるこの短い詩は、古代から1300年を経た現代でも多くの人々に親しまれています。

 

今回は、現代短歌の第一人者である歌人「石川啄木」の一首「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」を紹介します。

 

 

本記事では、「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。

 

「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の詳細を解説!

 

新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど

(読み方:あたらしき あすのきたるを しんずという じぶんのことばに うそはなけれど)

 

作者と出典

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。

 

石川啄木は、明治時代に活躍た歌人です。岩手県に生まれ、文学で生きていこうと上京するも、失敗や挫折を繰り返した苦労人です。貧苦と病苦の中で生活に即した3行書きの短歌を詠み、処女歌集『一握の砂』で有名になるも、27歳にして病でこの世を去りました。

 

また、この歌の出典は『悲しき玩具』です。

 

『悲しき玩具』は、1910年(明治43年)に発行された作者の処女歌集で、作者の上京以後の短歌551首を収録。内容は、故郷や北海道での生活を回想したものと、都会生活の哀歓をうたったものに分かれています。歌はすべて、石川啄木の作品の特徴でもある3行分かち書きの形式で表現されています。

 

現代語訳と意味 (解釈)

 

少し古い言い回しや仮名づかいが用いられている歌ですが、現代語なので意味はそのまま取ることができます。

 

現代風に噛み砕くと・・・

 

「新しい明日(より良い社会・時代・世の中)が来ると自分は信じているし、自分自身にも周りに向けてもそう言ってきた。その言葉に嘘はない。けれど…(本当に来るのだろうか。どうすればいいのか。自分に何ができるのだろう…)」

 

といった内容になります。

 

文法と語の解説

  • 「新しき明日の来るを」

「新しき」…新しいという意味ですが、「今とは違う」「変革された」「希望に満ちた」といったイメージを含んでいます。

「明日」…翌日のこと。この歌では「近い将来」「社会や世の中」「これから先の時代」といったものを指しています。

「の」…主格を表す格助詞。「~が」の意味。

「来るを」…「来る」のあとに格助詞(準体助詞)「の」が省略されています。

 

  • 「信ずといふ」

「信ず」…信じる。

「と」…格助詞

「いふ」…動詞「言う」

 

  • 「自分の言葉に嘘はなけれど」

「自分」…歌の主人公。この歌では作者自身のこと。

「言葉」…「新しい明日が来ると信じている」と言ったことを指す。

「嘘はなけれど」…「な」は動詞「無い」。「けれど」は逆説の接続詞。

ふつうは接続詞の次に言葉が続きますが、この歌ではあえて続けずに接続詞で終えています。

 

 

「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の句切れと表現技法

句切れ

句切れはありません。

 

字余り

第3句が「5音」になるところを「6音」に、第4句が「7音」になるところを「8音」にしています。

 

表現的効果を狙ったというよりは、言葉を連ねる中で自然に生じたものだと思われます。

 

「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」が詠まれた背景

 

この歌が詠まれたとき、作者の石川啄木は貧しい生活をしていました。

 

もともと生活苦が続いていた啄木ですが、この頃はそれに加えて肺結核を患っていました。そんな中でも、この時代で根強く在った家族制度や階級制度、資本制度などに疑問を抱き、社会主義を信じて、新しい未来が来ることを見通していました。

 

しかし、自分自身は病身であり無力。こんな自分に何ができるのだろう。そもそも、本当に社会は良い方向に変わっていくのだろうか。新しい未来なんて来るのだろうか… そんな思いから生まれた歌です。

 

彼は、この歌を収めた歌集の出版を依頼した1週間後、歌集の刊行を待たずに亡くなりました。亡くなるまでの間、明日こそ、明日こそ…と、希望に満ちた未来を待ち続けていたのかもしれません。

 

「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の鑑賞

 

【新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど】は、当時の世の中に疑問を抱いていた作者が、より良い未来が来ることを願う思いを詠んだ歌です。

 

まず目につくのが、「新しき明日」という表現です。「明日」は今よりも先ですから、いつでも新しいもののはずです。しかし、啄木は「新しい社会」や「新しい時代」といった表現ではなく「明日」という言葉を選びました。ここには、啄木の「明日こそきっと…」という切実な思いが込められているように思います。

 

また、「自分の言葉」と表現しているあたりに、啄木の真面目さが伺えます。自分が言ったことには責任を持つし、言ったことは間違いないと思っている。…社会がより良くなることを強く信じていることも伝わってきます。

 

しかし、歌の最後は「けれど――」。(歌集では最後にダッシュ(――)がつき、より余韻を残す作品となっています。)新しい明日は必ず来る!とずっと信じてきたけれど、来る日も来る日も、それが現実になる予兆を感じられない。少し落胆し、虚しさを感じている様子も伺えます。自分に何ができるのか。本当により良い世の中になっていくのだろうか…。病身の啄木の、無念さがにじむ一首です。

 

作者「石川啄木」を簡単にご紹介!

(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia

 

石川啄木は、1886年(明治19年)岩手県日戸村に、お寺の長男として生まれました。

 

生まれた翌年に渋民村に移住し、両親の愛を一身に受けて育ちました。小学校では、卒業時に主席を争うほど優秀だったと言われています。

 

盛岡中学校在学中に、上級生の金田一京助の影響で文学にめざめ、雑誌『明星』を愛読。読書のし過ぎと、のちに妻となる節子との恋愛がもとで成績不振となり、中学校を退学。文学で身を立てるべく上京します。

 

しかし、何の目算もなかった試みは4ヶ月で失敗に終わり、病に倒れて帰郷。病が癒えるころに作品を発表し始めると、1903年(明治36年)に『明星』に掲載された詩が注目されました。これを機に詩作に自信がつき、様々な雑誌で作品を発表。1905年(明治38年)に第一詩集『あこがれ』を刊行し、若き詩人としての地位を手に入れました。

 

一方、父が住職を罷免したことや、自身の結婚もあって生活は困窮。一家の生計を立てるために小学校で代用教員をするも1年で免職します。職を求めて北海道に渡ったり、再び上京したり転々としながら小説を書くも売れず、生活苦が続きました。そういった経緯もあって、当初の浪漫的か歌風から、現実を直視した自然主義的歌風へと転じていきました。

 

さらに、1910年(明治43年)には大逆事件に衝撃を受けて社会主義に傾倒。同年に歌集『一握の砂』が刊行され歌人として有名になるも、その翌年に肺結核でこの世を去りました。享年27歳でした。

 

「石川啄木」のそのほかの作品

(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)