短歌は、作者が思ったことや感じたことを5・7・5・7・7の31音で表現する定型詩です。
「みそひともじ」とも呼ばれるこの短い詩は、古代から1300年を経た現代でも多くの人々に親しまれています。
今回は、現代短歌の第一人者である歌人「石川啄木」の一首「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」を紹介します。
盛岡の中心を走ってるバス「でんでんむし」。石川啄木が書いてあった。これ始めてみたわ!『新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど』これ素敵だわ! pic.twitter.com/P6TRLp26Js
— 鏡ちゃん (@kyochan_) March 2, 2016
本記事では、「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の詳細を解説!
新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど
(読み方:あたらしき あすのきたるを しんずという じぶんのことばに うそはなけれど)
作者と出典
(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia)
この歌の作者は「石川啄木(いしかわ たくぼく)」です。
石川啄木は、明治時代に活躍た歌人です。岩手県に生まれ、文学で生きていこうと上京するも、失敗や挫折を繰り返した苦労人です。貧苦と病苦の中で生活に即した3行書きの短歌を詠み、処女歌集『一握の砂』で有名になるも、27歳にして病でこの世を去りました。
また、この歌の出典は『悲しき玩具』です。
『悲しき玩具』は、1910年(明治43年)に発行された作者の処女歌集で、作者の上京以後の短歌551首を収録。内容は、故郷や北海道での生活を回想したものと、都会生活の哀歓をうたったものに分かれています。歌はすべて、石川啄木の作品の特徴でもある3行分かち書きの形式で表現されています。
現代語訳と意味 (解釈)
少し古い言い回しや仮名づかいが用いられている歌ですが、現代語なので意味はそのまま取ることができます。
現代風に噛み砕くと・・・
「新しい明日(より良い社会・時代・世の中)が来ると自分は信じているし、自分自身にも周りに向けてもそう言ってきた。その言葉に嘘はない。けれど…(本当に来るのだろうか。どうすればいいのか。自分に何ができるのだろう…)」
といった内容になります。
文法と語の解説
- 「新しき明日の来るを」
「新しき」…新しいという意味ですが、「今とは違う」「変革された」「希望に満ちた」といったイメージを含んでいます。
「明日」…翌日のこと。この歌では「近い将来」「社会や世の中」「これから先の時代」といったものを指しています。
「の」…主格を表す格助詞。「~が」の意味。
「来るを」…「来る」のあとに格助詞(準体助詞)「の」が省略されています。
- 「信ずといふ」
「信ず」…信じる。
「と」…格助詞
「いふ」…動詞「言う」
- 「自分の言葉に嘘はなけれど」
「自分」…歌の主人公。この歌では作者自身のこと。
「言葉」…「新しい明日が来ると信じている」と言ったことを指す。
「嘘はなけれど」…「な」は動詞「無い」。「けれど」は逆説の接続詞。
ふつうは接続詞の次に言葉が続きますが、この歌ではあえて続けずに接続詞で終えています。
今日一日お疲れ様でした。
新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど
石川啄木「悲しき玩具」おやすみなさい。
素敵な夢を…… pic.twitter.com/3EmzvSpzvh— koma (@niyan1go) June 24, 2014
「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の句切れと表現技法
句切れ
句切れはありません。
字余り
第3句が「5音」になるところを「6音」に、第4句が「7音」になるところを「8音」にしています。
表現的効果を狙ったというよりは、言葉を連ねる中で自然に生じたものだと思われます。
「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」が詠まれた背景
この歌が詠まれたとき、作者の石川啄木は貧しい生活をしていました。
もともと生活苦が続いていた啄木ですが、この頃はそれに加えて肺結核を患っていました。そんな中でも、この時代で根強く在った家族制度や階級制度、資本制度などに疑問を抱き、社会主義を信じて、新しい未来が来ることを見通していました。
しかし、自分自身は病身であり無力。こんな自分に何ができるのだろう。そもそも、本当に社会は良い方向に変わっていくのだろうか。新しい未来なんて来るのだろうか… そんな思いから生まれた歌です。
彼は、この歌を収めた歌集の出版を依頼した1週間後、歌集の刊行を待たずに亡くなりました。亡くなるまでの間、明日こそ、明日こそ…と、希望に満ちた未来を待ち続けていたのかもしれません。
「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど」の鑑賞
【新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど】は、当時の世の中に疑問を抱いていた作者が、より良い未来が来ることを願う思いを詠んだ歌です。
まず目につくのが、「新しき明日」という表現です。「明日」は今よりも先ですから、いつでも新しいもののはずです。しかし、啄木は「新しい社会」や「新しい時代」といった表現ではなく「明日」という言葉を選びました。ここには、啄木の「明日こそきっと…」という切実な思いが込められているように思います。
また、「自分の言葉」と表現しているあたりに、啄木の真面目さが伺えます。自分が言ったことには責任を持つし、言ったことは間違いないと思っている。…社会がより良くなることを強く信じていることも伝わってきます。
しかし、歌の最後は「けれど――」。(歌集では最後にダッシュ(――)がつき、より余韻を残す作品となっています。)新しい明日は必ず来る!とずっと信じてきたけれど、来る日も来る日も、それが現実になる予兆を感じられない。少し落胆し、虚しさを感じている様子も伺えます。自分に何ができるのか。本当により良い世の中になっていくのだろうか…。病身の啄木の、無念さがにじむ一首です。
作者「石川啄木」を簡単にご紹介!
(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia)
石川啄木は、1886年(明治19年)岩手県日戸村に、お寺の長男として生まれました。
生まれた翌年に渋民村に移住し、両親の愛を一身に受けて育ちました。小学校では、卒業時に主席を争うほど優秀だったと言われています。
盛岡中学校在学中に、上級生の金田一京助の影響で文学にめざめ、雑誌『明星』を愛読。読書のし過ぎと、のちに妻となる節子との恋愛がもとで成績不振となり、中学校を退学。文学で身を立てるべく上京します。
しかし、何の目算もなかった試みは4ヶ月で失敗に終わり、病に倒れて帰郷。病が癒えるころに作品を発表し始めると、1903年(明治36年)に『明星』に掲載された詩が注目されました。これを機に詩作に自信がつき、様々な雑誌で作品を発表。1905年(明治38年)に第一詩集『あこがれ』を刊行し、若き詩人としての地位を手に入れました。
一方、父が住職を罷免したことや、自身の結婚もあって生活は困窮。一家の生計を立てるために小学校で代用教員をするも1年で免職します。職を求めて北海道に渡ったり、再び上京したり転々としながら小説を書くも売れず、生活苦が続きました。そういった経緯もあって、当初の浪漫的か歌風から、現実を直視した自然主義的歌風へと転じていきました。
さらに、1910年(明治43年)には大逆事件に衝撃を受けて社会主義に傾倒。同年に歌集『一握の砂』が刊行され歌人として有名になるも、その翌年に肺結核でこの世を去りました。享年27歳でした。
「石川啄木」のそのほかの作品
(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)
- やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
- 馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に
- 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
- 頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
- 砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
- かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川
- はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
- 石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
- 病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも
- 不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心
- ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな
- いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ