今回は、多彩な才能を持つ歌人「寺山修司」の一首「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」を紹介します。
わが夏を あこがれのみがかけされり
麦藁帽子 かぶりて眠る寺山修司 pic.twitter.com/5rTTZ13OEJ
— 櫻えぼし@日本の風景 (@pchankuro) August 25, 2015
本記事では、「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」の詳細を解説!
わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る
(読み方:わがなつを あこがれのみが かけされり むぎわらぼうし かぶりてねむる)
現代語訳と意味 (解釈)
この歌を現代語訳すると、下記のようになります。
「私の夏の時を、憧れだけが駈け去っていった。(だからせめて)私は麦藁帽子をかぶって眠るのだ。」
ひと夏の思い出に思いを馳せながら、思い出の残り香を感じるように麦藁帽子をかぶって眠る…といった、なんともエモーショナルな一首です。
作者と出典
この歌の作者は、「寺山修司(てらやましゅうじ)」です。
短歌界でも名の知れた歌人ではありますが、詩や俳句、戯曲を書くなどマルチに才能を発揮した人物です。その生涯は47年と短いものでしたが、マルチな活動で膨大な量の文学作品を発表しました。
また、この歌は出典は『寺山修司 全歌集』です。
「寺山修司 全歌集」は昭和46年(1971年)に刊行されたもので、それまでに出した数冊の歌集の歌と、歌集を出す以前に作った歌などを収めたものです。この歌集には「初期歌篇」という章があり、これは1957年以前、作者が高校生時代に作った歌を収めた章です。「わが夏を…」の歌もこの章に書かれています。
文法と語の解説
- 「わが夏」
直訳すると「自分の夏」という意味ですが、「私が過ごしたこの夏の時間」といった意味合いです。
- 「あこがれ」
憧れとは、物事に心が奪われること・胸を焦がすこと。夏の間に出会った人、その人と過ごした時間のことを「あこがれ」と表しています。
- 「かけされり」
動詞「駈け去る」+完了の助動詞「り」。駈け去って行ったという過去を表します。
- 「麦藁帽子」
夏の思い出、少年の日の思い出の象徴と言えるアイテムです。
「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」の句切れと表現技法
句切れ
この歌は「三句切れ」です。
前半の三句で「夏の思い出が走馬灯のように駈け廻って去って行った」ということが描かれ、残りの第四句と結句で、その思い出の余韻に浸るような主人公の様子が描かれています。
表現技法
この歌には、特筆するような表現技法は用いられていません。
「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」が詠まれた背景
作者の寺山修司氏は早稲田大学に進学後、18歳で歌人としてデビューしますが、この歌はそれよりももっと前…青森高校の学生の時に詠まれたと言われています。
この歌は「燃ゆる頬」という連作の中の一首です。連作のタイトルからも、若々しい青春のイメージが感じられます。実際に「燃ゆる頬」は青春を歌ったと思われる作品の連作です。
「わが夏を…」の歌の中心となるモチーフ「麦藁帽子」。この歌とイメージが重なる歌が、「初期歌篇」の中にもいくつかあります(下記)。
- 「夏帽のへこみやすきを膝にのせて我が放浪はバスになじみき」
- 「列車にて遠く見ている向日葵は少年の振る帽子のごとし」
- 「ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん」
- 「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」
寺山修司の歌には、実際にはいない弟が出てきたり、生きている母が亡くなったものとして書かれているものがあります。つまり、虚構性が強いのです。
実際に思ったことや感じたことを詠むのが短歌の基本だという意見もあり、寺山修司の作品も賛否両論あったようです。しかし彼は「青春のカリスマ」とも呼ばれていましたので、青少年期を描いた抒情的な作品が評価されていたことは間違いないでしょう。
「わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る」の鑑賞
【わが夏をあこがれのみがかけされり麦藁帽子かぶりて眠る】は、夏の思い出の余韻に浸る様子を描いた歌です。
主人公は、「夏」に特別な思い出があるようです。出会った人、その人と過ごした時間…楽しいことも、もしかすると切ない思いをすることもあったのかもしれません。そんな夏の思い出が、走馬灯のようにふと駆け巡ったのでしょうか。
過ぎ去って思い返してみると、幻だったかのようにも思える。そんな夏の思い出の余韻に浸るかのように、麦藁帽子をかぶって眠る……。
現代的に言うと「エモい」の一言で片づけられてしまいそうですが、その背景に想像を広げて、ゆっくり味わってみたい一首です。
作者「寺山修司」を簡単にご紹介!
(三沢市にある寺山修司記念館 出典:Wikipedia)
寺山修司は、昭和10年(1935年)、青森県に生まれた歌人、劇作家です。父八郎は、青森県警に勤務する警官でしたが、戦争に取られ、寺山修司が10歳足らずの頃に戦死しました。
10代の早い頃から、俳句や短歌を詠み、青森高校時代には俳句雑誌『牧羊神』を主宰していました。昭和29年(1954年)、早稲田大学教育学部国文学科に入学し、この年、18歳で連作「チェホフ祭」が雑誌『短歌研究』の特選に選ばれました。寺山修司が短歌に傾倒した理由に、同年『短歌研究』に掲載された中城ふみ子の短歌の連作「乳房喪失」に影響を受けたとされます。中城ふみ子や寺山修司らは、既存の短歌のアンチテーゼであり、現代短歌のひとつの始まりと言われます。
病気を得て学業を続けることが困難になり、早稲田大学は中退。生活保護を受けて入院生活を送るなど、苦労しました。
しかし、昭和30年(1955年)には処女戯曲「忘れた領分」が早稲田大学で上演され、昭和32年(1957年)には処女歌集『空には本』が刊行されました。20代のうちに、テレビやら地の人気脚本家となり、昭和42年(1967年)には、劇団「天井桟敷」を横尾忠則や東由多加らと結成しました。「青少年のカリスマ」ともよばれ、若者からの人気がある表現者でしたが、 昭和50年代半ばから肝硬変を患い、昭和58年(1983年)47歳で死去しました。
「寺山修司」のそのほかの作品
(寺山の墓 出典:Wikipedia)