古典文学の時代から日本に伝わる詩のひとつに短歌があります。
五・七・五・七・七の三十一文字で自然の美しい情景を詠んだり、繊細な歌人の心の内をうたい上げたりします。
今回は、独自の思想と「生活を歌う」三行書きの表現によって近代短歌の歴史に不滅の足跡を残し夭折した、石川啄木の歌「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」をご紹介します。
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
(石川啄木)
啄木が70日あまり滞在した明治41年当時、釧路の町の中心は釧路川東岸にあった。その後繁華街は西岸に移った。霧雨の朝、啄木が通った料亭「軍鶏寅」跡などがある東岸旧市街は、ひっそりとしていた。 pic.twitter.com/iK8uwEtU3D— カフェバグダッド (@cafebaghdad) July 31, 2017
本記事では、「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の意味や表現技法・句切れについて徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の詳細を解説!
しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな
(読み方:しらしらと こおりかがやき ちどりなく くしろのうみの ふゆのつきかな)
作者と出典
この歌の作者は「石川啄木」です。
それまでの短歌と全く違う、同時代の歌人の歌とも違う、歌を生活の中のその人の心のつぶやきとすることで多くの人に感銘を与えた歌人です。
また、この歌の出典は『一握の砂』です。明治43年(1910)刊。石川啄木の処女歌集です。
この歌は明治41年(1908)に釧路に単身赴任していたころのことを詠ったと言われています。釧路での暮らしは3か月ほどで、この歌は釧路を去る直前に見た風景を詠んだものです。
現代語訳と意味(解釈)
この歌を現代語訳すると…
「白く氷がかがやき、千鳥が鳴く、釧路の海岸の冬の月夜の光景よ。」
という意味になります。
この歌が詠まれたのは、千鳥が渡ってくるころで3月中旬から4月上旬です。厳しい冬の釧路を歌った叙景歌として知られていますが、寒さが緩み始めるころの歌です。
この歌の初出は「東京朝日新聞」で、その時は「しらしらと氷かがやき千鳥啼く釧路の海も思出にあり」と歌われていました。
文法と語の解説
- 「しらしらと」
「しらしら」は「白白」と表記し、いかにも白いさまです。
- 「氷かがやき」
釧路地方は、冬の気温は低いですが降雪は比較的少ない地域です。釧路港や釧路川の河口の海上などにできる円形の氷を蓮葉氷(はすはごおり)といいます。1月中旬から3月中旬頃まで見られる現象です。
- 「千鳥なく」
「千鳥」は、チドリ目チドリ科の鳥の総称で、河原などに群棲しています。日本には12種が分布し、古来より詩歌では冬鳥とされています。
- 「釧路の海の」
釧路市は北海道の東部、太平洋岸に位置しています。釧路湿原や阿寒摩周といった国立公園が有名です。この句の「の」は、場所を表す格助詞です。
- 「冬の月かな」
秋から冬にかけての釧路は、夕日が美しい街、晴天の日が多いことが有名です。「かな」は終助詞で詠嘆の意を表します。
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の句切れと表現技法
句切れ
この句は以下のように「千鳥なく」が動詞の終止形ですので、いったん意味が切れます。
「しらしらと氷かがやき千鳥なく/釧路の海の冬の月かな」
上記のように、三句目の「千鳥なく」で切れていますので、「三句切れ」です。三句切れは七五調といい、古今集以降に発達しました。
表現技法
表現技法として目立つような技法は用いられていません。
釧路の美しい冬の風景を見たままにストレートな表現で詠んでいます。
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」が詠まれた背景
石川啄木は、明治40年(1907)、21歳のときに妻子を実家に預けて、故郷の岩手県から北海道へ渡りました。
豊かな文才を発揮する機会を求めてのことでした。
7月には妻子を呼び寄せましたが、商工会議所の臨時雇いや小学校の代用教員、地方新聞の校正係などのしごとに満足することができず、函館、札幌、小樽、釧路と職を変えながら転々とします。
釧路で新聞記者として働いていましたが、文学者として身を立てたいと上京を決意します。
この歌は、忘れがたき人というテーマでまとめられた中の一首としておさめられており、北海道時代の回想を詠んでいます。
「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の鑑賞
【しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな】は、冬の釧路の海の景色を写生的に詠んだ歌です。
「しらしらと」は漢字で表記すると「白白」となります。「氷かがやき」と続くことで、氷の白く冴えるような冷たさが伝わってきます。
また、このころの啄木は新聞記者として忙しく、お酒を飲むようになり、文学創作からは遠ざかっていました。
氷の冷たさを見ていつの間にか、文学者でありたいということを忘れていた自分に気づいたのかもしれません。
千鳥は高い音で「ピゥーピゥー」と鳴きます。寂寥感を感じさせる鳴き声です。「千鳥なく」頃は早くても3月中旬で、蓮葉氷がみられる時期としては最後になります。
初出では、「釧路の海も思出にあり」となっており、啄木が釧路を後にしたのが4月3日であることを考えると、後に釧路を思い出して詠んだものと思われます。
啄木の中の釧路の風景は、蓮葉氷の白さと千鳥の寂しげな鳴き声、暗い海の上の澄んだ空に冴え冴えと浮かぶ月だったのではないでしょうか。
自身の思い通りにいかない境遇と上京しようと決意した思いが感じられる一首です。
作者「石川啄木」を簡単にご紹介!
(1908年の石川啄木 出典:Wikipedia)
石川啄木は、明治時代の歌人です。文学で身を立てたいという思いはかなわず、詩歌が高く評価されました。生年は明治19年(1886)で、曹洞宗常光寺の住職の家に生まれました。本名は一(はじめ)、啄木は雅号です。
学齢より1年早く尋常小学校に入学します。卒業の時には首席となり、村人からは神童と言われました。盛岡高等小学校を経て盛岡尋常中学校に進学します。
しかし、文学と恋愛に熱中するあまり学業がおろそかになり、明治35年17歳の時に退学することになりました。
その後、文学で身を立てようと一度上京するも失敗します。故郷に戻り、小学校の代用教員を務めたり、北海道へ渡って新聞記者をしたりと職と住まいを転々とします。
明治41年(1908)に再度上京。小説を書きますが評価は得られず、新聞社に校正係として勤めることになりました。
妻子と両親との暮らしはいつも困窮していました。
昭和44年(1911)25歳で、母と同じ肺結核を患います。若山牧水、土岐哀果の協力により歌集『悲しき玩具』を出版することになりましたが、それを待たずに明治45年(1912)享年26歳の若さで永眠しました。
「石川啄木」のそのほかの作品
(1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia)
- やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
- 馬鈴薯の薄紫の花に降る雨を思へり都の雨に
- 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる
- 頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
- 砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
- かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川
- はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
- 石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
- 病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも
- 不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心
- ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな
- いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ