短歌は、日常の中で感じたことを5・7・5・7・7の31音で表現する定型詩です。
みそひともじと呼ばれるこの日本特有の「短い詩」は、古代から1300年を経た現代でも多くの人々に親しまれています。
今回は、第1歌集『サラダ記念日』が社会現象を起こすまでの大ヒットとなり、現代短歌の第一人者として今も活躍している俵万智の歌「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」をご紹介します。
さくらin 平岸🌸
心散るならば満開の
木の下で言われたかったさようなら
by俵万智📕✏️ pic.twitter.com/AaEdrYa1UB— Serika Hasegawa (@mermaid__59) May 5, 2017
本記事では、「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。
目次
「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」の詳細を解説!
心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら
(読み方:こころちる ならばまんかいの きのしたで そっといわれた かったさよなら)
作者と出典
この歌の作者は「俵 万智(たわら まち)」です。
文学にあまり詳しくない人でも、日本ではほとんどの人が名前を知っていると言っても過言ではないくらい有名な歌人です。日常の出来事を分かりやすい言葉選びで表現した短歌は、親しみやすく、それでいて切り口が斬新で、今も多くの人の心を掴んでいます。
また、出典は『かぜのてのひら』です。
1991年に河出書房新社から発行された、作者の第2歌集です。第1歌集『サラダ記念日』の刊行からの4年間、激動だった24歳から28歳までに詠んだ歌を収録しています。タイトルの「かぜのてのひら」は、収録されている一首「四万十に光の粒をまきながら川面なでる風の手のひら」からとったものだそうです。
現代語訳と意味 (解釈)
この歌は現代語で詠まれた歌なので、意味はそのまま受け取ることができます。あえて内容を噛み砕いて書き直すと、次のような情景を歌っています。
「心が散る(失恋する)ならば、(どうせなら)満開の桜の木の下で、そっと「さよなら」を言われたかった」
では、語の意味や文法を確かめながら、この歌の真意を読み取っていきましょう。
文法と語の解説
- 「心散るならば」
「心散る」は、古典的には「関心が次々と移る・心が集中しない・気が散る」と言う意味の言葉で、平安時代に書かれた『源氏物語』にも使われています。しかし、俵万智の歌においての「心散る」はその意味ではなく、心が花びらのように散ってしまうほど悲しい気持ちのことを表しています。「ならば」は動詞「成る」の未然形+接続助詞「ば」で、「それなら」「できることなら」という意味になります。
- 「満開の木の下で」
「満開」は花が十分に開くことや、すべての花が開いた状態をいいます。何の花なのかは歌の中に書かれていませんが、ふつう「満開」と聞くと、日本人は桜の花を想像します。「木」に咲く花であることからも、おそらく桜の花を指しているのでしょう。そんな満開の桜の「木の下」に、場所を表す格助詞「で」が続きます。
- 「そっと言われたかったさよなら」
「そっと」は音を立てないように静かに、ひそかに物事をするようすを表す副詞です。「言われたかった」は細かく分解すると、動詞「言う」の未然形+受け身の助動詞「れる」の連用形+希望を表す助動詞「たい」の連用タ接続+過去を表す助動詞「た」に分けられます。主人公はすでに「言われた」ことについて、こうだったらよかったのに…と振り返っているのです。その言われた内容が最後の「さようなら」にあたります。
「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」の句切れと表現技法
句切れ
この歌に句切れはありませんので「句切れなし」です。
句切れなしの歌は、初句から結句まで流れるように詠まれていることが特徴です。
字余り
字余りとは、「五・七・五・七・七」の形式よりも文字数が多い場合を指します。あえてリズムを崩すことで、結果的に意味を強調する効果があります。
2句目が「7音」になるところを「8音」にしています。これは表現技法としての効果をねらったというよりは、「満開」という言葉を使ったためだと考えられます。
句またがり
句またがりとは、文節の終わりと句の切れ目が一致しない状態を言います。句またがりは、短歌のように句数の定まった定型詩で使われる技法です。
初句から2句へ「心散るならば」、2句から3句へ「満開の木」、4句から結句へ「言われたかった」という言葉がまたがっています。
5・7・5・7・7のリズムにあまりはまらない破調の歌ですので、言葉のまたがりも多く見受けられます。
「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」が詠まれた背景
この歌を詠んだ背景について作者自身が取り立てて語ったことはありませんが、「桜の歌」については以下のように話しています。
歌人にとって桜の花というのは、画家にとっての富士山のようなもの。多くの先人に多くの名作を作らせた素材というのは、ちょっとやそっとの気構えでは立ち向かえない。下手をすると、歌人のほうが、桜にからめとられてしまうという恐さがある。(中略)
奇しくも、私も同じ「中央公論」から桜の短歌を依頼されたことがあるが、一カ月かかってやっと二首。それでも、へとへとになってしまったのを覚えている。
(引用:https://allreviews.jp/review/814)
俵万智は短歌を作るときに何度も何度も推敲を重ねるそうです。何気ない風景を詠んだ歌ですが、作者はここにたどり着くまでに相当な推敲を重ねたのではないかと思われます。
また、「心散る…」の歌は、高校の現代文の教科書にも掲載されています。作者である俵万智が書いた随想「さくらさくらさくら」の本文中に書かれており、その後に次の文が続きます。
自分の心が散る時には、桜の花は満開であってほしい、と思った。そしてまた、桜の散る様子を見ていると、それは「終わる」という後ろ向きのものではなく、まさに飛翔しているかのように感じられた。ならば、今散ろうとしている自分の心も、飛翔へと変えることができるかもしれない……。そんな励はげましを、もらったような気がする。
(出典:新編現代文B 東京書籍)
歌だけを見ると悲しさや切なさを表しているように感じられますが、作者は「終わりの後にある希望」も含ませてこの歌を詠んだようですね。
「心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら」の鑑賞
【心散るならば満開の木の下でそっと言われたかったさよなら】は、人の心と桜の花を対比させて悲しさや切なさを表現した歌です。
心が散る…という表現は、辞書では「気が散ること」と意味付けがされていますが、この歌では違います。文字通り「心」が「散る」ような、悲しい気持ちを表しています。
そして心が散った理由は、誰かに「さようなら」を言われたからなのです。誰かにさようならと言われるような場面はいくつも考えられます。この歌から多くの人が想像するのは《恋人との別れなのではないでしょうか。「心散る」というロマンチックな表現も、恋愛の歌であることを示唆しているように思います。
桜の花びらがひらひらと散るように、今まさに目の前で恋が散ってゆく。失恋による悲しさや喪失感は、なぜあんなにも心に穴があくように辛いのでしょう。経験のある方は、自分の失恋の記憶に胸がきゅっと痛くなるかもしれません。
この歌の主人公はその虚無感の中にいながら、「どうせなら満開の桜の下で言われたかった」と言います。私の心が散ってしまうのなら、せめて華やかな満開の桜のもとで。そうであれば、「少しは前向きになれたかもしれないのに。」「新たな一歩を踏み出せるかもしれないのに。」そんな思いが込められているように感じられます。
「散る」「満開」といった相反する言葉を巧みに使い、心と桜を重ねて見事に心情を描いた作者には、さすがの一言です。
作者「俵万智」を簡単にご紹介!
俵万智さんは、1962年大阪府門真市生まれ。13歳で福井に移住。その後上京し早稲田大学第一文学部日本文学科に入学しました。
歌人の佐佐木幸綱氏の影響を受けて短歌づくりを始め、1983年には、佐佐木氏編集の歌誌『心の花』に入会。大学卒業後は、神奈川県立橋本高校で国語教諭を1989年まで務めました。
1986年に作品『八月の朝』で第32回角川短歌賞受賞。翌1987年、後に彼女の代名詞にもなる、第1歌集『サラダ記念日』を出版しました。短歌になじみがなかった人にも分かりやすい表現が受け、瞬く間に話題を呼び、この歌集はベストセラーになりました。『サラダ記念日』は第32回現代歌人協会賞を受賞しています。
高校教師として働きながらの活動でしたが、1989年に橋本高校を退職。本人曰く、「ささやかながら与えられた『書く』という畑。それを耕してみたかった。」とのことで、短歌をはじめとする文学界で生きていくことを選んだそうです。
その後も出版する歌集は度々話題となり、現在(2022年)は第6歌集まで出版されています。短歌だけでなくエッセイ、小説など活躍の幅を広げ、芝居の脚本にも挑戦。現在も季刊誌『考える人』(新潮社)で「考える短歌」を連載中です。また1996年6月から毎週日曜日読売新聞の『読売歌壇』の選と評を務めています。2019年6月からは西日本新聞にて、「俵万智の一首一会」を隔月で連載しています。
プライベートでは2003年11月に男児を出産。一児の母でもあります。
「俵万智」のそのほかの作品
- 思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
- 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
- この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日
- 水蜜桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う
- 君のため空白なりし手帳にも予定を入れぬ鉛筆書きで
- 親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト
- 愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う
- 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
- ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
- いつもより一分早く駅に着く一分君のこと考える
- なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き
- 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
- 寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら